「長い日本の生活で、心に強く残る一人の日本人がいます。」と語るのは、日本滞在73年のポーランド人神父、ミハエル・モスカさん。加藤恭子編「続・私は日本のここが好き!外国人43人が深く語る」からご紹介いたします。
心に強く残る一人の日本人
私は今年、94歳になります。長い日本での生活で、心に強く残る一人の日本人がいます。その男は、学生寮で働いていました。人の二倍は働き、給料を学生のために寄付してくれました。
凛とした美しい表情
ここに彼の写真があります。どこか遠くを見つめ、凛とした美しい表情です。癌を患い、声を失っていました。庭仕事の途中で、神父である私を見かけると、礼儀正しく深々とお辞儀をしました。私も彼に会うのが楽しみになっていました。
私は驚愕しました
日々の自分の考えを日記に綴っていたのですが、彼は最期を迎えるにあたり、学生たちに伝えたい言葉を「死にさいして」という小冊子にまとめていました。彼が亡くなった後、その文章を読み、私は驚愕しました。神父でも、哲学者でもない普通の日本人が、日常のなかで、深く自分を見つめ人格を磨いていたことに。
死んで生きる
彼は裕福な家庭で育ったのですが、〝死んで生きる〟という親鸞聖人の教えを大切に、日々の労働に励んでいました。彼の中では、死んで生きるということは、無心に働くということ。自ら、月に一~二回断食をしていました。食べられない人を思っての行いです。周りの人がどんなに勧めても毎夕食、寮の生徒が食べ残した物しか口にしません。自分の欲を捨てることにより、真理を見つけようとしていたのです。
辿り着いた結論
人間はどこから来て、どこへ行くのか。なぜ生きているのか。迷いながら正しい生き方を模索し続けていたのです。求めていた己を捨てて無欲で生きる生き方と、カトリック神父の労働犠牲の生涯が、ある日、彼の中で一致し、「私が長い間探し求めていたものはここにあったのですね」という結論に達しました。神学生でもない普通の日本人が、自分自身の考えで辿り着いた結果がキリストの教えだったとは驚きです。
石泥(イシドロ)
ポーランドに日本の様子を伝える本を私は書いたのです。その中で彼のことを「私の好きなおじいさん石泥(イシドロ)」として紹介しました。「石泥」とはめずらしい表現ですが、スペインの聖人イシドロにちなんで、彼自身がつけた名前でした。彼はこう言いました。「私の心は石のように硬かったのですが、人間とは何なのか、正しい道とは何のか自問自答する中で泥のように軟らかくなっていきました」自然にある石や泥を例えに出すなんて、日本人らいしい発想です。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の心のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、キリストの教えを知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 20章9~19節
そこでイエスは次の譬(たとえ)を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。
そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。
ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、私の愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互いに話し合い、彼をぶどう園の外に追い出して殺した。
そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。
そんなことがあってはなりません
神の権威を受け入れようとしないパリサイ人、律法学者について、イエスは譬で語られました。それを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言いました。民衆は皆、譬で言われれば、それが正しいことではないと分ったのです。
家造りらの捨てた石
これは旧約聖書の詩篇の言葉ですが、それは自分のことだとイエスは理解していたのでしょう。律法学者、祭司長たちも自分たちのことを言われたと理解しました。それは旧約聖書の預言であり、神の計画であったということでしょう。
いかがでしたか
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2018年6月11日(月)タピ大決定!
「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」シリーズの第4回目です。今回は「古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅~伊勢神宮・京都太秦」と題して、昨年12月23日~31日に訪れた伊勢志摩、京都太秦の旅の報告です。道の駅情報もお伝えします。お近くの方はぜひお出で下さい。詳しくは固定ページをご覧ください。
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」