【日本とイスラエル】「高天原」「高千穂」とはどこか?

星空

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

神話以降

第一世代である三柱の神は、天を起源とし、また天に住んだ。イザナギ・イザナミの第七世代は、天と地の間にある「天の浮橋」から地上に降り、オノゴロ島に住んだ。彼らの子孫は、天高き場所から日本に到着した。日本の神話では、スサノオは高天原から新羅に降り下り、そこから出雲(ヘブライ語で「その島はどこだ?」の意味)に渡った。

高天原とは

日本には「高天原」「高千穂」と呼ばれる山がいくつかあるが、ニニギノミコトが、そこから日本に降って来たという「高天原」と呼ばれる高地はどこにあったのだろうか?高天原とは、シナイ山であろうか?それとも約束の地であるイスラエルの地や、聖なる山モリヤ、シオンの山を指してそう呼んだのであろうか?

高千穂とは

私の考えでは、「高千穂」という名前が使われたのは、十部族の出身地と日本に渡る旅路への記憶を留めた名称である。十部族とその子孫の意識の中には、シナイ山と、彼らの遥か昔の故郷である神殿の丘、シオンの山の記憶が強く残っていたであろう。

パミール山脈

その後、十部族は離散し、パミール山脈の麓に長く留まったが、その時にはパミールの山の頂を神聖なものとして記憶した。彼らは山々の頂の一つを今日に至るまで「ハカドッシュ」(ヘブライ語で「神聖」の意味)と呼んでいる。

タクラマカン

古代日本人の習慣は、今日中央アジアに見られる遊牧民族の地域の人々の習慣と似ている。それゆえ日本人学者の中には、日本人は中央アジアのタクラマカンあたりから移って来た民族である、と考える人々もいるが、その仮定は正しいと思われる。パミール高原の果てに位置するタクラマカンは、シルクロード上にある十部族の大切な宿営地の一つであった。

ヤ・バ・エル

十部族の子孫が日本に到着してから、彼らの古い伝承で伝えられてきた聖なる山「高天原」の神聖さを、九州の「ヤ・バ・エル」と呼ばれる谷のそばにある山に移した。「ヤ・バ・エル」はヘブライ語では「主なる神が来給う(又は、居たもう)」となる。

日本に向かった最初の世代

高天原は、パミール高原にある場所であり、そこにはアフガニスタンを出発し日本に向かった最初の世代、つまり「神々」が住んでいて、そこからスサノオやニニギノミコトらは、日本の出雲占領に向けて出発したのではないか。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章1~18節

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

初めに言(ことば)があった

著者の「ヨハネ」はイエスの12使徒のひとりであり、彼はイエスと三年半、一緒に生活をした。そのヨハネがイエスについて記した書がヨハネによる福音書である。言(ことば)とは何か。とても抽象的で、象徴的な文章表現であるが、読み進めていくにしたがって、徐々にヨハネの言わんとしていることが分かってくるのかもしれない。

ひとりの人、ヨハネ

ここに登場する「ヨハネ」とは、著者のヨハネではなく、キリストをあかしするバプテスマのヨハネのことだと考えられる。

彼を受けいれた者

「彼」とは、イエス・キリストを指していると思われるが、この文章からも「信じる」とは「受け入れる」、つまり、その教えを受けいれる、その教えに従うことを意味しているのであって、必ずしもキリスト教徒になることではないことが分かる。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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