【日本とイスラエル】出エジプトと日本への旅

日本人の幸せ表紙

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。(写真は私の著書「日本人の幸せ~古代ユダヤによってもたらされたイエスの教え」です。ぜひお読みください。)

「キノエトラ」の年

日本伝承は、神武一行の約束の地への旅が終了した年を「キノエトラ」の年だ、と伝えている。この年の呼び名は、日本語では意味がない。一方ヘブライ語で「コネー」という言葉には、「作り出す」「創造する」という意味がある。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います」の「造り主」は「コネー」というヘブライ語であり、「キノエトラ」は「コネー・ヤー・トーラー」(創造主がトーラーを与えられた)と解釈できる。つまり創造主(コネー)によってトーラー(律法の書)がモーセに与えられた年である。

ヘブライ語的、アラム語的

日本伝承は、この年を紀元前667年と定めており、彼らの指導者はこの年、「ソホリ」(聖書のセイル?)の地方にある高千穂(シオンの山)に、長老たちを招集している。日本の伝承で、約束の地に向けた神武遠征の物語に含まれるほとんどの名前の発音とその前後関係、またはその意味は、ヘブライ語的、またはアラム語的であり、日本語の名詞が本来持つ発音や意味とは、かけ離れている。

二つの大きな旅

私の考えでは、日本の伝承には、イスラエル諸部族の歴史で最も重大な出来事が、複数組み合わされている。第一には、約束の地、イスラエルの地を目前にしてネボ山山頂に立つモーセであり、第二にはそれから約千年後、先遣隊の長としてアフガニスタンからカラクム砂漠、ゴビ砂漠を通過し、中国を抜けてついに日本の地に立った十部族の指導者である。

出エジプトの旅と重なった日本への旅

この旅路は、紀元前722年のイスラエル追放後、途中数々の休息を含み、またアフガニスタンから東方に向けて先遣隊が出発するなどして、断続的に継続してきた。これは約55年に渡る、長く困難な道のりであった。日本に到着した十部族の生き残りたちは、この旅路を、エジプトを脱出してイスラエルの地に向かって行ったイスラエル民族の旅路と等しいものとみなした。

二つの記憶は混じり合った

どちらもほぼ同じ長さの日々をかけて、多くの荒れ野を歩き、数々の障害を乗り越えた。時間が経過するにつれて、この最初の旅路の記憶と、最後の旅路の記憶とが混じり合ってしまい、一つの長く厳しい旅路の記憶として、民族的意識の奥深くに刻み込まれたとしても不思議ではない。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開く時、そこに古くて新しい発見があるでしょう。

新約聖書 マタイによる福音書 15章32~39節

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままでかえらせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。

弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さな魚が少しあります」と答えた。

そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。

決して当たり前の出来事ではない

以前に五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたという出来事があり、ここには七つのパンと少しの魚で四千人を満腹にさせたという出来事が記されています。弟子たちは以前にも同じような出来事を経験していながら、ここでも当たり前の出来事としては記されていません。それゆえに、私はこれもまた事実の記録であると考えます。そのような神の超自然的な出来事を目の前で目撃した弟子たちにとっても、それは決して当たり前の出来事ではなかったのです。目には見えませんが、確かに今も神は生きて働いておられ、時に人間的な常識では考えられない超自然的な力をもって私たちの人生に介入してくださいます。しかし、決してそれは当たり前のことではありません。いつも必ず起こるという自然界の法則ではありません。神の超自然的な介入なのです。そのような見えない神に目を留めつつ、しかし現実的に生きることが求められていると私は思います。信仰とは決してただ奇跡を期待して、やるべきことをしないということではないと思います。

いかがでしたか

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10月17日(水)タピ大決定!

「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」シリーズの5回目になりました。今回は「古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅~剣山・ソロモンの秘宝」と題して、この8月6日~16日の旅行のレポートをさせていただきます。お近くの方はぜひお出かけください。タピ大については、こちらのサイトをご覧ください。

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

詳しくは書籍情報をご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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