【日本とイスラエル】ヤマトタケル(2)

書籍「失われた十部族の足跡」

「ヤマトタケル」の物語にはイスラエルと関連することが多く見られるようです。アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

アツマー・ハヤ!

相武の人たちを打ち負かしたヤマトタケルは曲がりくねった険しい山々を通過して、自分の国に向かった。しかし、狭い峠に差し掛かった時、荒ぶる女神が女鹿の姿で待ち構えていた。ヤマトタケルは剣で彼女の目を突き刺して殺し、さらに山を登り続け、その頂上で三度嘆息した後、美しいヘブライ語で「アツマー・ハヤ!」と叫んだ。その意味は(彼が殺した)「動物は大きかった」である。この国は「あづま」と呼ばれるようになったと古事記は伝えている。

ボー・ハリームのミ・ヒー・ズ

最後に我々の英雄は険しい岩山で覆われた山岳地帯である信濃(シナノ)の国に入り、父親に約束した通りその地方の神々を滅ぼした。その後、信濃の坂を越えて、山岳地帯である尾張(オワリ、「ボー・ハリーム」はヘブライ語で「ここに山がある」の意)に戻り、そこでかつて遠征に行く途中に婚姻の誓を立てたミヤズヒメ(ヘブライ語で「ミ・ヒー・ズ」は、「この女性は誰?」の意味)の宮殿に住んだ。

サカー・ボリー

彼女はヤマトタケルに敬意を表して大きな杯を差し出した。苦難の旅路に疲労していたヤマトタケルはここでついに休息を得、この地を「サカー・ボリー」と呼んだ。その名のヘブライ語の意味は「創造者はついに私を保護された」、「私の創造者が私を守ってくださる」となる。

ヤー・サカー

日本に来たイスラエル十部族の人々は「サカー」という言葉を「保護」「守り」という意味で多く使っている。天皇家で神聖な装身具とされているのは「ヤー・サカー」と呼ばれ、神の名前である「ヤー」を意味するヘブライ語のユッドの形をしている。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 4章1~26節

イエスが、ヨハネよりも多くの弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。

イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。

すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。

イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。

イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。

女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。

イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。

イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

サマリヤの女

サマリヤは北イスラエルの町であり、それはヨセフに与えられた土地の近くであったと記されています。北イスラエルのおもだった人々はアッシリヤに捕囚され、残された農民らはアッシリヤの政策により外国人との結婚が進められていたので、イスラエル民族の純血を大切にするユダヤ人はサマリヤの人たちとは交際しなかったようです。しかし、もともと北イスラエル民族であるサマリヤの人々はメシヤのことは知っていたのでしょう。

この山でもエルサレムでもない

この山とは北イスラエルのゲリジム山のことで、北イスラエルの人たちはそこで神を礼拝しました。しかし、南ユダの人々はエルサレムこそ神を礼拝するところだと言っていたのです。ここでイエスはそうではないということを明確に教えています。つまり、大切なことはそのような宗教的な伝統を守ることではなく、霊とまこととをもって神を礼拝することであり、それは場所や宗教儀礼に縛られるものではないということでしょう。救いはユダヤ人から来るとは、メシヤはユダ族から出るということを言っているのだと思います。

永遠の命に至る水

イエスは「わたしの言うことを信じなさい」とサマリヤの女に言いました。それはキリスト教徒になりなさいということではありません。神に立ち返り、神に目を留めて生きなさいということです。イエスはそれを永遠の命に至る水にたとえたのだと思います。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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