【日本とイスラエル】古代人らの足跡

書籍「失われた十部族の足跡」

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

カン・ダ・アム・ウズィ

太秦からそう遠くない地域に「カン・ダ・アム・ウズィ」(ヘブライ語では「知れ、ここに我が力の民がいる」の意味になる)と呼ばれる古い村があるが、日本語での意味は「大河を渡る者たちと、旅路のモチを食する者たち」である。この名前は種入れぬパン(マツァ)を食したことや、二つに分かれた川を渡ったことなど、出エジプトの重大な出来事の記憶が数千年もの間、人々の中に残っていたことを暗示している。

イスラエルのランプ

大和地方の大切な山の一つに、大神(オオミワ)神社のそばの弓月嶽と呼ばれる山がある。大神神社は日本でも最も古い神社の一つで、その出土品には紀元前六世紀のものもある。その中にはイスラエル諸部族がイスラエルを追放された時代のものと驚くほど似ているランプなども含まれている。

妙見宮の祭

九州西部の八代には秦(ハタ、またはハダ)氏の子孫が住んでおり、妙見宮という彼らの古い神殿が残されている。祭の日には信者たちは「ハレルヤ!ハアリー・ヤー!トシェ・ヤーウェ!ヤーウェ!ヨイットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェよ、救い給え、ヤーウェよ、主は我らと共にある」という意味になる)と歌いながら、神輿を担いで行列を行うが、その歌の言葉は日本語では意味をなさない。彼らは先祖から代々受け継がれた言葉をそのまま継承しているのである。この行列はエジプト脱出と割れた紅海を渡る物語とを記念し、救いを感謝して行われているのではないか。それで「主を誉めよ!主を掲げよ!救い給え!主は我らと共にあり!」と歌っているのではないだろうか。

銀座

東京の商業中心地に銀座という名の通りがある。17世紀にこの場所に貨幣鋳造所があり、貨幣が流通する前に保管される場所でもあった。「銀座」とはヘブライ語で「保管」を意味する「グニザー」ではないだろうか。この場所の目的にも役割にもふさわしい名前である。

ゴシェン、メナシェ

大和地方に「ゴシェン」「メナシェ」という、ヘブライ名のとても古い二つの村がある。日本語にはこれらの言葉の語源は見当らない。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 5章30~38節

わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。

もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。

あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。

しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。

また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言(みことば)はあなたがたのうちにとどまっていない。

み旨を求める

「み旨」とは神の御心のことです。イエスはご自身のさばきは正しい。なぜなら、神のみ旨を求めているからだと言っています。自分の考えからではなく、神のみ旨を求めることが大切です。

真理についてあかしをする

ヨハネは真理についてあかしをしたとイエスは言いました。「真理」とは、時代を超え、国を超え、思想を超え、宗教を超え、すべての人々がその通りだと考えることでしょう。真理を求めることが大切です。

神の超自然的な力

それが安息日であったということで、38年も病気で悩んでいた人をイエスがいやしたことをユダヤ人たちは責めました。しかし、イエスを通して神の超自然的な力が働いていなければ、そのようなことは不可能でしょう。イエスを責めるユダヤ人たちは目の前で働く神の力にではなく、安息日を守らないという宗教的な戒律に目を奪われて、真理から目をそらしてしまったのではないでしょうか。

神に目を留める

神に目を留めるならば、イエスを通して神の力が働いていることが分かるのではないでしょうか。イエスは人々に宗教ではなく、生きて働いている神に目を留めるように、真理を求めるようにと教えました。イエスの言葉を受け入れ、神に目を留めること、真理に目を留めることが大切ではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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