【日本とイスラエル】鳥居、手水舎、至聖所、神楽

書籍「失われた十部族の足跡」

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

ヤキンとボアズ

古代エルサレムの神殿の入り口にはヤキンとボアズと呼ばれる二本の柱が建てられていた。当時それが天井を支えていたのか、自立していたのかは分からない。ともかくそれが神社のシンボルとなり、神社の入り口には必ず二本の柱が建てられている。この門を日本語では「鳥居」と呼ぶ。

手水舎(てみずや)

神社では、鳥居と神殿の間に手と口を洗う場所が設けられている。「手水舎(てみずや)」と呼ばれて、清めを象徴している。「タメー・ゼ・ヤー」というヘブライ語は「穢れている、ここは主である」という意味である。つまり「穢れに注意しなさい!ここから先は主の領域である!」ということであろう。エルサレムの神殿では、祭司たちでさえ神域に入る時には、神殿の前に置かれていた洗盤で手を洗って清めたのである。

至聖所

神社には偶像や肖像は一切置かれていない。神社の「至聖所」、つまり最も聖なる場所である本殿には「ご神体」が入れられた箱が置かれている。このご神体は神性を象徴する、神社で最も大切なものである。エルサレムの神殿でも至聖所には契約の箱が安置され、その中には十戒が刻まれた二枚の板が納められていた。エルサレムの神殿では年に一度、大贖罪日に大祭司だけがこの至聖所に入ることができたと同様、神道でもご神体を見ることができるのは祭司のみである。

神楽

祭が近づいてくると鳥居の二本の柱の間には、白い紙片が吊るされた縄(注連縄)が渡される。「神楽」と呼ばれる歌と踊りが最高潮に達すると、「神輿」と呼ばれる神殿の形態をした箱が担がれてくる。神輿は移動式神殿のようなものであるが、その後から興奮した人々が踊り、歌いながらついてくる。その様子はユダヤの祭「シムハット・トーラー」(トーラーの喜び)の日に、トーラーの巻物を取り出して担ぎながら踊る様子にそっくりである。神楽はこのシムハット・トーラーと同様、神と一体になる喜びを表す。私は「カ・グラ」という言葉はアラム語・ヘブライ語が起源だと考える。その意味は「ここに住み給う」「ここに神の臨在がある」である。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 7章14~24節

祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。

そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。

イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。

もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

神の教え

イエスは自分の教えではなく、神の教えを教えていると言いました。そして、神のみこころを行おうと思う者であれば、それが神から出た教えであるかどうかは分かると教えました。自分の栄光や人の栄光ではなく、神に喜ばれることを中心にしている人には、それが分かるということでしょう。大切なことは人間中心、自己中心を退けて、神を中心にすることです。

モーセの律法

モーセの律法、それは神がモーセを通してイスラエルの人々に与えた律法ですが、それは神の言葉です。結局、彼らはそれを守っていないとイエスは言いました。当時のユダヤ教は神の言葉を人間中心の宗教にしていたということだと思います。うわべで判断しないで、神の前に正しい判断をしなければなりません。大切なことは神を中心にすることであって、宗教ではないのです。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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