【日本とイスラエル】落合莞爾氏の著書より

日本とイスラエルの関係について、友人が落合莞爾という方の著書を紹介してくれました。これまで聖書の視点に立つ研究者の意見が多かったですが、この方はユダヤ人でもクリスチャンでもない立場から、古代日本にイスラエル系渡来人があった動かぬ証拠を数々あげています。彼の著書「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」からご紹介いたします。

弥生時代の始期

Y染色体ハプログループO1b2型の倭族が日本列島に渡来してきたことで始まる弥生時代の始期は、じゅうらい前400年ころとされていましたが、平成15(2003)年に国立歴史民俗博物館は「放射性炭素年代測定」(C14年代測定法)を用いた一連の研究により、弥生時代の始期を600年繰り上げて、前1000年ごろと発表いたしました。

弥生系神道

倭族は以後、続々と日本列島に渡来しますが、・・・村落共同体を形成し、縄文人が造成した跡地を開墾しながら、どんどん発展します。この村落共同体で生まれた宗教が弥生系神道で、五穀豊穣と村落の安寧および子孫の繁殖を祈る素朴な信仰を主とします。

オリエント多神教

ところが、弥生神道の奥底を詳しく観れば、農業にとって最も大切な太陽神の他にも、バアル(スサノヲ=牛頭天王)やマイトレーヤ(ミトラ=弥勒)、アナーヒター(水の女神)ら、オリエント多神教の神々が神名を変えて入っていることが窺えます。

中東人がもたらした

これらの神々は、ほんらい太陽や雷神を崇拝するオリエント多神教の神格ですから、中東人がもたらしたものと観るしかありません。オリエント多神教を奉持する中東人が日本列島に渡来したことは、後に述べる「十支族ユダヤ」の族長の一人、丹波国桑田郡穴太(あのう)村の上田アヤタチ家の家伝から明らかですが、現在「アラブ人」とか「中東人」と呼ばれる中東住民と、かれらを同一視するのは大きな問題があります。

十支族ユダヤ

日本列島に渡来した「十支族ユダヤ」は、「アヤタチ」を称する家筋を中心として幾つかの支流に分かれます。支流の族長をアヤタチと言い、到来地により三カ所に分かれ、丹後半島では上田氏(のちに海部直(あまべあたい))、河内国では物部連(もののべむらじ)を称し、豊後国では宇佐国造(うさのくにのみやつこ)家に潜入して宇佐氏を称します。

アヤタチ

丹後半島では支族の祖神ホアカリを祀る籠(この)神社(京都府宮津市大垣)を設けますから当然社家がアヤタチです。籠神社の社家はのちに海部直を称しますが、この海部のカバネは豊後アマベ氏から家伝・事蹟ごと譲り受けたものですから、旧姓(ユダヤ姓)は判らないのです。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 10章22~39節

そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。

イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。

あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。

そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。

ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。

イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言(ことば)を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。

そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。

神を汚した

宗教の権威に従うのか、それとも生きて働いておられる神に従うのか。イエス・キリストは宗教を伝えたのではなく、生ける真の神を伝えました。「信じる」とは、イエス・キリストの教えは真実であり、本当のことだと受け入れることに他なりません。決して新たに宗教を始めることではありません。その違いが分かるでしょうか。ユダヤ人たちはそれがなかなかわからなかったようです。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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