古代イスラエルと日本に関連する事柄について、再びアビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。
清め
「ミソギ(禊)」と呼ばれる洗浄の儀式によって行われる。「ミソギ」はヘブライ語で「流れる水」という意味になる。「メイ」はヘブライ語で「水」、「ソギ」はアラム語で「行く、流れる」という意味がある。
流れる水
事実、神道における禊はモーセの宗教と同様、泉の水、川の水、滝の水など、流れる水でなければならない。言葉の発音と、その言葉が持っている清めに関する意味、内容までが一致するなどということは、偶然で起きる可能性はゼロに近いだろう。
四十億分の一
仮に、当時日本語の単語が数万語あったと仮定し、単語を形成する音節が六十種類あったとする。すると「みそぎ」のように二単語・三音節の言葉が、日本語とヘブライ語で全く同じ「清めに関する流れる水」という意味を偶然に持つ可能性は四十億分の一である!!(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。
新約聖書 ヨハネによる福音書 12章36~43節
イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白しなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
イエスを信じる
このブログでは何度も書いておりますが、「イエスを信じる」とはイエスの教えを受け入れるということであり、キリスト教徒になるということではありません。実際、この聖書に記された人たちはキリスト教徒になった訳ではありません。イエスは神に立ち返って生きるようにと教えました。しかし、イエスの教えを受け入れる者は多くなく、それはイザヤの預言通りだと記されています。イザヤはイエスが生まれる700年も前にいた預言者で、その言葉は旧約聖書に記されています。「悔い改める」とは、神に立ち返るということですが、神に立ち返るならば、いやされるということもイザヤの言葉から分かります。人々が病んでいるのは、神から離れているからだということでしょう。
神のほまれ、人のほまれ
役人たちの中にも、イエスの教えを受け入れる者は多かったとあります。しかし、彼らはそれを表明しませんでしたし、教えは本当だと思ったにも関わらず、それに従った生活をしようとしなかったということでしょう。もちろん、人からも神からも喜ばれる人生を生きたいと私も思います。しかし、神から離れた既成組織の恩恵を受けつつ、神の前にも正しく生きるということは両立し得ないことは明らかでしょう。
いかがでしたか
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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