【日本人と日本文化】和のこころ

聖徳太子

「和のこころ.com」という大変興味深いウェブサイトを見つけました。一部ご紹介させていただきます。

聖徳太子の「十七条憲法」

聖徳太子の「十七条憲法」・第一条はこの言葉で始まります。「一曰。以和為貴。無忤為宗。」(一にいわく、和をもって貴しとなし、さからうこと無きを宗とせよ。)【意味】「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としないさい。」

「和の精神」

いかに、聖徳太子が「和」というものを重んじていたのかが分かります。ここで誤解していただきたくないのは、「和」というのは「同調」ではないということです。日本の「和の精神」はよくないという人たちは、「和」を「同」と同じものと考えているのではないかと思います。例えば、自分を持たずに人の意見に従うことや、ブラック企業で上司のいうことに「はい」としか言えないというのは「同(同調圧力)」であって「和」ではありません。

「和して同ぜず」

孔子の「論語」に、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉があります。「君子は、人と協調するけど、主体性なく適当に人に賛成することはない。小人(つまらない人)は、何でも適当に賛成することはあっても、人と本当に信頼し合うことはできない。」 つまり、「和」を「同」と捉えるのはつまらない人物ですよと否定しています。みんながやってるから・・・、みんなと一緒じゃないと・・・、という考え方は「同」です。聖徳太子は、単なる妥協や融和をススメているのではありません。人々が心から調和できれば、どんなことでも成し遂げられるという理念を説いているのです。

日本独自の「和」

太子は大陸の思想を研究しましたが、その中に「和」という徳目はありませんでした。当時の仏教にはないですし、儒教は「仁」「義」「孝」という徳目が中心です。太子は、外国思想をそのまま真似たのではなく、独自の考えで「和の精神」を打ち出したのです。中国の文献に残る古代日本の国名は「倭(わ)」です。これは、中国が蔑視する漢字を当てたもので、音から考えると「和」だったと考えられますね。平安時代に「日本」と国名を表す以前、この国は「和国」だったのです。「やまと」に「大和」という字を当てたのも、「和」の重視からでしょう。(サイトからの引用は以上です。)

「和のこころ」こそイエスの教え

この「和の精神」は聖徳太子の独自の考えであり、他の国の文化には見出すことのできない徳目だとサイトの著者は述べていらっしゃいますが、それはイエスの教えには明らかだと思います。イエスは繰返し弟子たちに互に愛し合うこと、調和を保つこと、心を一つにすることを教え、そのために祈ったことが新約聖書には記されています。イエスは自分の信念を神の前にしっかりと持つと同時に、人と和することを教えています。その精神が他国の文化には見られず、日本にのみ見られるのだとすれば、それこそ古代日本にイエスの教えがもたらされていたことの証拠だと思います。「和のこころ」を大切に継承したいと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開く時、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 使徒行伝 8章26~40節

しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。そこで、彼は立って出かけた。

すると、ちょうど、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピア人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。

御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。

彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、

「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。

宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。

そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。

そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。

宦官はよろこびながら旅をつづけた。その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。

エチオピア人の宦官

この人はユダヤ人ではありませんでしたが、聖書を読んでいたようです。何が本当のことなのか、人はどう生きるべきなのか、そういうことを考え、求めていたのかもしれません。御霊の声が実際に聞こえたのか、私には検証する術はありませんが、ピリポは神に導かれて、この宦官に声をかけました。ピリポは彼にイエスのことを伝え、自己中心、人間中心を退けて、神に立ち帰り、神を中心にして生きる神の国について伝えたのではないでしょうか。彼はこの教えこそ真理だと受け止め、神に立ち帰ったのではないでしょうか。バプテスマとは全身を水に沈める入信の儀式ですが、彼はそうしたかったのでしょう。彼はイエスの弟子たちと行動を共にしませんでしたが、神に立ち帰り、喜んで旅を続けたことが記されています。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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