【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(10)宮古島の神話と聖書の類似性

楽園追放

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日は宮古島の神話と聖書の類似性について、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。

宮古島の「スディ水」と聖書の「いのちの水」

宮古島の大昔、人の世の初めの時、天の神は、末永く常世の命を生きるように、人間にスディ水を浴びせ、一方では、心の悪い蛇には、スニ水を浴びせようとされた。(スディ水は巣出水の意味。古い殻を脱ぎ捨てて、新しい命を受け継ぐこと。卵からヒナがかえることや、蛇の脱皮やセミの脱殻も巣出。スディ水は絶えず心身が新しくなり、永久の生命をつなぐ水のこと。スニ水は死水で、死んで再生できない水のこと。)

そこでアカリヤ仁座(天使)は、二つの水桶を持って下界へ下った。下界へ下りて、ちょっと用を足している間に、一匹の蛇がすばやくやって来て、人間に浴びせるためのスディ水の桶に入ってしまった。アカリヤ仁座は驚いて「どうしよう。まさか蛇の浴び残りを人間に浴びせる訳にもいかない。しょうがない。スニ水だけでも人間に浴びせよう」と気の毒に思いながらも、人間にスニ水を浴びせて天上へ帰った。

そして、スディ水を浴びた蛇は、脱皮して新生命を受け継ぎ、スニ水を浴びせられた人間は永久に生きたくても、一度死ねば再生できないように運命づけられてしまった。

そして蛇は、それまでは長い丈夫な四足を持っていたが、このように人間をもしのぐすばやさでは都合が悪いということで、神々はその足をもぎ取ってしまった。それでいつまでたっても蛇の足はできず、のろのろと腹這うほかできなくなったという。

これは聖書の記述と良く似ている。アダムとエバが、命の木の実を食べそこねたこと。さらに善悪の知識の木の実を蛇にだまされて食べてしまい、人間に死が入り込んでしまったこと。この蛇も、悪い者、サタンの化身だが、その後、呪いとして蛇は手足を失い、地べたを這いまわるようになるのである(創世記3章)。・・・このように宮古の神話の中に、聖書との類似があるのは、とても興味深い。

古宇利島の創世神話

それは琉球の人々の起源は、太古の昔、無人島にいた一組の男女であったというものである。彼らは初め、裸で、何の気がねもせず、のびのびと暮らしていたが、ある時から食物を得るために額に汗して働かねばならなくなった。彼らは海鳥の交尾を見て、男女の道を知ったが、それまで裸でいたのが急に恥ずかしくなり、木の葉をつづって腰に巻くようになった。これは旧約聖書のアダムとイブの話しに非常に良く似ているのである(創世記3章)。

沖縄南部の諺

また沖縄南部では「イキガヤ ソーキブニヌ ティーチタラン」(男はあばら骨が一つ足りないという意味)の諺(ことわざ)がある。この諺は「男は女にかかったら愚になる」という意味に使われているそうだが、これもアダムから肋骨が1本取られ、それをもとにしてイブが造られたという話しに良く似ている(創世記2:21-22)。

沖縄の創世神話

さらに、沖縄の創世神話には、天の神が、土で人間を形づくるという物語がある。その時に、天の神は自分に似せて、人間を造ること、人間が生きるために、息を吹きかけることなど、旧約聖書の記述にあまりにも似ているのである(創世記1:26-27,2:7)。この他にも、色々調べてみれば、もっと類似性が見つかるかもしれない。(ブログからの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄人、日本人の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心の原点を知るために聖書を開いてみてください。

新約聖書 使徒行伝 23章11~15節

その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。

夜が明けると、ユダヤ人らは申し合わせをして、パウロを殺すまでは飲食をいっさい断つと、誓い合った。この陰謀に加わった者は、四十人あまりであった。

彼らは、祭司長たちや長老たちのところに行って、こう言った。「われわれは、パウロを殺すまでは何も食べないと、堅く誓い合いました。ついては、あなたがたは議会と組んで、彼のことでなお詳しく取調べをするように見せかけ、パウロをあなたがたのところに連れ出すように、千卒長に頼んで下さい。われわれとしては、パウロがそこにこないうちに殺してしまう手はずをしています」。

パウロを殺す陰謀

パウロを殺す陰謀こそ人間中心、自己中心に他ならないと思います。彼らにとってユダヤ教という宗教は神の前に正しく生きる力ではなく、自己中心を正当化するものになってしまったのではないでしょうか。イエスが糾弾したのは、そのような宗教のあり方だったのだと思います。

しっかりせよ

その夜、パウロにも不安があったのでしょうか。人間中心になれば、パウロも不安になったのではないかと思います。しかし、そこでパウロは「しっかりせよ」という神の言葉を聞いたと記されています。パウロには、神は確かに生きて働いているということを、この神に立ち帰って生きるということを、ローマでも伝える使命があるということを、神はパウロに語ったということでしょう。この神を中心にして生きる。それがパウロが伝えていたことであり、イエスの教えだったのだと思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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