【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(6)沖縄とイスラエルのお正月

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日は沖縄とイスラエルのお正月についてです。

沖縄とイスラエルの祭り

沖縄の祭りは月の満ち欠けを基準とした太陰暦で行われます。イスラエルの祭りも同じ様に太陰暦で行われます。そして、不思議なことにどちらも太陰暦の1月15日にお正月を祝います。1月1日なら、それほど不思議ではありませんが、どちらも1月15日であるということは、どういうことなのでしょうか。偶然では片づけられないと思います。

なぜ1月15日に正月を祝うのか

沖縄では太陰暦の1月15日から7日間正月を祝うそうです。実は旧約聖書にはこのような記述があります。

主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月(旧暦の1月)をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。(旧約聖書 出エジプト記 12章1、2節)

第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。この月の十五日には、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。(旧約聖書 レビ記 23章5、6節)

つまり、沖縄では太陰暦の1月15日から七日間お正月を祝いますが、イスラエル民族もこの旧約聖書の記述のように、1月15日から七日間、種を入れないパンの祭りを祝うのです。

餅を食べる

沖縄でも、本土でもお正月には餅を食べます。ヘブライ語では種を入れないパンを「マッツァ」と言いますが、発音も「モチ」に似ています。餅の原料はもち米ですが、種、つまりパン種(酵母)を入れないパンと言うことができると思います。

沖縄のトゥシヌユル

また1月14日、つまり大晦日はトゥシヌユルといって沖縄では特別な夜を過ごす習慣があるそうです。正月用の豚をつぶし、家族で食事をし、寝ずに夜明けを待つ。眠ってしまうと災いがあるとも言われているそうです。また、マルチジャンといって、トゥシヌユルには特別な肉の食べ方をするそうです。まな板を地面に置き、そこで肉を切り分け、座ってもいけない、皿にとってもいけない。ティジカーン(素手で)、トンタッチー(中腰)で食べるという風習、儀式があったそうです。不思議な風習ですが、旧約聖書にはこのような記述があります。

その夜(1月14日の夜)、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。・・・あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰に帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたし(神)はエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。・・・この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。(旧約聖書 出エジプト記 12章8、11、12、14節)

沖縄の正月はイスラエルの過越の祭りだった

これで、沖縄ではなぜ旧暦の1月15日にこのような風習を行うのかお分かりいただけると思います。その起源は旧約聖書にも記されているイスラエルの過越の祭りとそれに続く七日間の種入れぬパンの祭りに遡ることができるでしょう。それは、かつてエジプトで奴隷状態であったイスラエルを、神が救い出した出来事、出エジプトの出来事を祝うものです。だから1月15日であり、七日間祝うのであり、このような食事の仕方をするのでしょう。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄、そして日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の原点を知るために、聖書を開いてみてください。

新約聖書 使徒行伝 22章22~24節

彼の言葉をここまで聞いていた人々は、このとき、声を張りあげて言った、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」。人々がこうわめき立てて、空中に上着を投げ、ちりをまき散らす始末であったので、千卒長はパウロを兵営に引き入れるように命じ、どういうわけで、彼に対してこんなにわめき立てているのかを確かめるため、彼をむちの拷問にかけて、取り調べるように言いわたした。

こんな男

パウロの話を聞いて、ユダヤ人の群衆はこのように反応しました。パウロの話を真実とは受け止めなかったということでしょう。しかし、何をもって真実と受け止めなかったのか、そのような冷静で客観的な吟味は一切なされなかったと思われます。ただ、パウロの言っていることが、自分たちの考えと違うという、それだけのことだったのではないでしょうか。パウロの言っていることを、とりあえず冷静に聞いて、自分たちの考えを吟味したり、検討したりすること。それさえもできないという人間の現実を思わされるように思います。しかし、自分の考えが絶対に正しいとどうして言えるでしょうか。自分の考えは何を土台にしているものなのか。既成概念を吟味し直すということは重要なことではないかと思います。もし間違った前提の上に、今の自分の考えが築かれているのだとしたら、いくらそれを深めても、結局は間違った結論に至るしかありません。前提そのものを吟味しなければならないと思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
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目次
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第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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