2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日はおおもとの神について、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。
本来はおおもとの神
沖縄の宗教は、殆どが祖先崇拝であり、「先祖の神」はご先祖様が、神様になったかのように思われている。でも本当にそうであろうか。沖縄には、ご先祖様が心を向けて、拝み、信仰していた、おおもとの神がいたようである。
大元霊神
日本神道においても多くの神々が存在しているようであるが、よく調べると大元霊神(だいげんれいしん)と言われる天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、つまり、おおもとの神を見いだすのである。沖縄は古神道、あるいは琉球神道と言われるが、やはりその中にも、おおもとの神の痕跡を発見するのである。
ウチカミ・ウヤクバ
与那城勇氏は著書「琉球エデンの園物語」で、牧師、照屋寛範氏の興味ある報告を紹介している。それによると、昔のユタは、ナンカ・シューコーで墓にお供え物を持っていく時、供の者がうっかりそのお供え物を墓の真正面に置いたりすると、ユタはそれを左側に置き直させた。そして「左からだよ、左からだよ」と言った。「なぜ左を拝むのですか」と聞くと、「左にはウカチミ・ウヤクバがあるからだ」と答えたそうだ。
ユタの祈願の言葉
この「ウカチミ」とは、人間の運命を握っている支配者(神)という意味で、「ウヤクバ」とは、その支配者のおられる役所(御役場)という意味である。そしてユタの祈願のセリフを聞いてみると「今日(キュウ)ヌユカル、マサル日ニ、生命アルムヌ血走(チバシイ)ユルムヌ、ウサギヤビラバ、親ウ元祖ヌ、不足、罪咎、アヤビテン、ウイチチジュラサ、ウタビ召(ミ)ヨウチ、ウナガミトウタビ召(ミ)ヨウチ、後生極楽(グソーグクラク)通(トゥ)チウタビ召(ミ)ヨウリ」
その意味は「今日の良き日に、命あるもの、血走っているものを、おささげ致しますから、ご先祖様の罪咎、不足ごとがありましても、お許しくださいまして、極楽に通してやってください。」ということである。
神への祈り
この祈りは、ご先祖様を神様として、祈願しているのではなく、主権者としてのおおもとの神に、祈りをささげていることが分かる。この祈りの場合、お墓の中央に向かってではなく、左側にいらっしゃる「ウカチミ」に祈っていることになる。もちろん、お墓の中央にも、神がいらっしゃるのだが、この左(ヒジャイ)ウカチミは、祈りを通してくださる神と言われている。
聖書の神
聖書の神ヤハウェ(神の名前、固有名詞)もおおもとの神として紹介されている。聖書の中で世界の造り主である神と、イスラエルの指導者モーセが最初に出会った時、神はモーセに、以下のように自己紹介している。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト3:14)
この「わたしはある。わたしはあるという者だ」(英語ではI AM THAT I AM)という言葉は、神の聖なる御名とも言われている。この名は「わたしは(この世界の)全ての存在の根源だ」という意味である。つまりヤハウェは、わたしは「全ての存在のおおもとだ」と自己紹介したのである。そして、続く言葉の中で、わたしは「先祖の神」だと紹介している。
「『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。』」(出エジプト3:15)
アブラハム、イサク、ヤコブは、イスラエル人の始祖の名前である。ここで言う「先祖の神」とは、先祖が神になったのではなく、遠い先祖の方々が、はっきりと認識して、信仰心をもって、拝んでいた神のことなのだ。(ブログからの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄、および日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 使徒行伝 25章6~12節
フェストは、彼らのあいだに八日か十日ほど滞在した後、カイザリヤに下って行き、その翌日、裁判の席について、パウロを引き出すように命じた。パウロが姿をあらわすと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった。
パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。ところが、フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロにむかって言った、「おまえはエルサレムに上り、この事件に関し、わたしからそこで裁判を受けることを承知するか」。
パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。
そこでフェストは、陪席の者たちと協議したうえ答えた、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい」。
わたしはカイザルに上訴します
エルサレムから下って来たユダヤ人たちの訴えは事実無根の言いがかりでしかありませんでした。パウロはユダヤ人に対して、何も悪いことをしていないと主張しています。もし悪いことをしているなら、死を免れようとは思っていないとも言いました。自己中心、人間中心を退け、神に立ち帰り、神を中心にして生きるイエスの教えを伝えていたパウロですが、パウロ自身そのように生きていることがよく分かります。神の前に正しく生きるなら、その結果はすべて神に委ねている生き方です。自分の利益のために神を利用するという考えではなく、すべての面において神を中心にする。それは必ずしも自分の思い通りになることを願っているのではなく、神の思い通りになることが幸いだと受け止めているということだと思います。これこそ本来の日本人の心ではないでしょうか。
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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