【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(26)火の神(ヒヌカン)

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。今日は沖縄の火の神(ヒヌカン)について、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。

沖縄の火の神(ヒヌカン)

沖縄では火の神(ヒヌカン)と言われる神が、人々に慕われ、あがめられている。・・・火の神(ヒヌカン)は「かまど」の神であり、各集落や各家庭で、「かまど」をかたどった三個の石を祀るようになった。火の神(ヒヌカン)のことを、別名「御三物(ウミチムン)」と呼ぶのは、これらの三個の石を指している。

沖縄の習慣

一般家庭では、毎月の一日と十五日には、ご飯(ウブク)を供え物として、火の神(ヒヌカン)に日々の感謝や願いごとをする。家庭で祀られる火の神(ヒヌカン)の他に、地域で信仰される火の神(ヒヌカン)や、琉球王朝全体で祀られる火の神(ヒヌカン)があり、人々に最も親しまれている神であり、同時に最高神とされる。沖縄では、仏壇(トートーメー)よりも古くから、信仰され親しまれてきた神である。

沖縄全域で見られる

火の神(ヒヌカン)は、ニライカナイ(遠い海の彼方に、理想郷の神の国がある)から火がもたらされたという信仰があり、火は太陽の化身としても崇められてきた。そして、地上で燃えさかる火に対しても、神が宿ると考えられ、常に火が存在するカマドに神を祀り始めたのである。それが火の神(ヒヌカン)として崇められ、いつしか信仰の対象とされるようになった。この火の神(ヒヌカン)信仰は、沖縄諸島全域と奄美諸島においても見ることができる。

イスラエルの神

実は聖書の神ヤハウェは、イスラエルの歴史を通して、「火の神」としても理解されてきたのである。ヤハウェは、イスラエルの指導者となるモーセを招くときに「いつまでも燃えつきない柴」という不思議な現象を示して、彼が近づいてくるように誘った。

(モーセ)が見ると、見よ、柴は燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。』」(出エジプト3:2-3)

モーセがこの燃えつきない柴に近寄ったときに、ヤハウェは火の中からモーセに声をかけ、イスラエルの民を連れて、エジプトを脱出するように導くのである。

火の柱

また出エジプトの後、荒野を旅するイスラエルの民をヤハウェは、昼は「雲の柱」によって、夜は「火の柱」によって導いた。

主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(出エジプト13:21-22)

実は、これは「雲の柱」も、「火の柱」も同じものである。雲の中が燃えて光り輝いている柱なのである。つまり夜になり周りが暗くなると、その雲が光り輝いて「火の柱」と表現され、昼は周りが明るくなるので「雲の柱」と表現されているのである。「雲の柱」も「火の柱」も一つであり、「火と雲の柱」なのである。

モーセの十戒

さらに神聖な山、シナイ山において、ヤハウェから十戒が授けられたとき、山が燃えたという記述がある。

主は、山で、火と雲と密雲の中から、力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。更に、それを二枚の石の板の上に書いてわたし(モーセ)に授けられた。山は火に包まれて燃え上がり……」(申命記5:22-23)

ここでは「火と雲の柱」が、山と一体となっているという描写である。「山は火に包まれて燃え上がり」とあるように、山全体が燃え上がり、「火の中から語られる神」として、ヤハウェの力強い声が全地に響いたのである。ただし、これは単なる山火事ではなく、「燃えつきない柴」のようにヤハウェの臨在を示すしるしであり、山が本当に燃えることはない。この時は、山全体が「燃えつきない柴」のようになり、イスラエルの民全体が、ヤハウェを体験したのである。まさにヤハウェは「火の神」として現れたのである。

聖書の神と火の神

このように聖書の神ヤハウェは「火の神」であり、沖縄の火の神(ヒヌカン)と良く似ている。他にも、火の神(ヒヌカン)はご神体が「御三物(ウミチムン)」と呼ばれる三個の石であり、ヤハウェは三位一体の神である。また火の神(ヒヌカン)は、人々に最も親しまれている神であり、ヤハウェはイスラエルの民全体が体験した神である。またどちらも、火の中から語られる神であり、最高神とされていることも同じである。(ブログからの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄および日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 使徒行伝 26章24~32節

パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」。

パウロが言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それは、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信じます。アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。

アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。

パウロが言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」。

それから、王も総督もベルニケも、また列席の人々も、みな立ちあがった。退場してから、互に語り合って言った、「あの人は、死や投獄に当るようなことをしてはいない」。

そして、アグリッパがフェストに言った、「あの人は、カイザルに上訴していなかったら、ゆるされたであろうに」。

気が狂っている

パウロが天からの不思議な啓示のことを語ったからでしょうか、それともキリストのよみがえりのことを言ったからでしょうか。ローマ人であるフェストには正気の話とは思えなかったのでしょう。しかし、パウロはまじめな真実の言葉だと言っています。

クリスチャンにしようとしている

アグリッパ王は大変ローマ的であったとは言え、ユダヤ人でしたから、預言者の言葉である聖書(旧約聖書)を否定することはできなかったでしょう。パウロの言葉に対して、反論の余地はなかったということでしょうか。わたしをクリスチャンにしようとしていると言いました。もちろん、この「クリスチャン」とはイエスの教えに従う者という意味で、キリスト教徒という意味ではないと思います。宗教ではなく、神に立ち帰って生きることが大切だというパウロの言葉は正しいと受け止める以外にはなかったということではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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