人生の目的は正しく生きることと深く関係していると私は思います
私たちがこの地上に命を受けたのは悪を行うためではないと思います。人を憎んだり、苦しめたり、それは人生の目的ではないと思います。正しく生きている時に、私たちは生きる喜びを感じると思います。悪を行いながら幸せを感じることはできないだろうと思います。
子供でもそうだと思います
小さな子供でも、自分のやりたいことをやりたい放題にやっていれば幸せかというと決してそうではないと思います。そういう子供に限って心の中にいつも不満を抱えているように思います。しかし、親の言う事に耳を傾け、いけないと言われたことを守ることができる子供は落ち着いていると思います。そして、明るく幸せそうに見えます。
もちろん、完全な人はいないと思います
誰でも正しく生きたいと思いながらも悪の誘惑に負けてしまうことはあり得ると思います。しかし、そのような自分を正当化し、自分の良心を誤魔化して生きるなら、やがて心の喜びは失われてしまうのではないかと思います。間違いは間違い。悪い事は悪いと認めて、そこからまた方向を変えて、正しく生きることが大切ではないでしょうか。
私はあまりに悪すぎる
今さら正しく生きることなんかできない。そんな風に思われる方もいらっしゃるでしょうか。たとえあなたが今どんな状況にあったとしても、向きを変えることはできると思います。どのくらい正しく生きることができるかという結果や成果ではありません。正しく生きること自体が人生の目的であり、正しい方向を向いたその瞬間に人生の目的に適ったのだと思います。
イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人
イエスと一緒に、その両側に十字架につけられた犯罪人の話が聖書に記録されています。ひとりは向きを変えませんでしたが、ひとりは十字架の上で心の向きを変えました。たとえどんな状況にあっても向きを変えることはできると思います。人生の目的とは心の向きであり、成果や結果ではないと私は思います。
それは神様を中心にして生きるということだと思います
それが私たちの人生の目的だと思います。それは宗教ではありません。もちろん、何かの宗教が正しく生きるための良い助けになるのであれば、その宗教も役に立つと思いますが、正しく生きるための役に立たず、むしろ人を見下げたり、自分だけが正しいと思い上がったりするのであれば、宗教も害になり得ると思います。
大切なことは正しく生きる事
神様を中心とした生活をすること。中心がずれていることに気づいたら、また中心を神様に戻したら、それで良いと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にすることを考えてみたいと思います。
新約聖書 使徒の働き 2章22~36節
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
ペテロの話の続き
イエスの弟子たちに聖霊が下って、それぞれ習ったこともない外国語で神様のことを話し始めたので、人々は驚き、中には酒に酔っているのではないかとあざける人もいたので、イエスの12使徒の筆頭ペテロが立ち上がって話した言葉の続きです。
神様が遣わしたイエスを十字架につけた
これはかつてダビデも言ったことであって、それはナザレのイエスこそ人となった神様であり、この方によって聖霊が注がれて、このような超自然的な現象が起こっているということ。これは神様の働きだと言うことだと思います。あなたがたはこの方を十字架につけて殺したのだとペテロは言いました。
間違っていたのなら、方向を変える
もちろん、その時にはそれとは知らずにイエスを十字架につけろと言ってしまったのかもしれません。しかし、間違ったことをしていたと気づいたなら、それを認めて、方向を変えることが大切だと思います。決して自己正当化することではないと思います。方向を変えて、神様を中心とした生活をしましょう。