昨日は「チアにっぽん」白馬セミナーの分科会に来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。たくさんの方々が来て下さり、熱心に聞いてくださり、感謝します。興味を持っていただき、ブログを引き続き読んでいただければ幸いです。また分科会の感想もぜひお聞かせください。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
土曜日は「恋愛、結婚」をテーマに「神様を中心とした生き方」について考えていますが、今日は「幸せのホームページ」から、「愛することで重要なこと」という記事をご紹介して一緒に考えてみたいと思います。5つのことが書かれていました。
一緒にいて幸せを感じる
自分の幸せは、相手に伝わります。人は幸せな雰囲気が好きだし、そういう場を作ってくれる人を好きになります。恐れ・疑いなどでイヤな雰囲気をつくるより、まず自分が幸せな気持ちになろう。そもそも愛する人と一緒にいるだけでも幸せなことなのですから。自分が幸せでいることが相手を幸せにする1つの方法です。
相手を信じる
恐れ・怒り・疑い・嫉妬などでイヤな気分にならないように、まず信じよう。相手を、自分を、互いの将来を。その上で幸せになる考え方を心がけよう。
共有の将来の幸せを持つ
もし長く深い愛を築こうと思うのなら、互いに共有できる将来の幸せ(夢や目標)を見つけましょう。それを相手に提案しよう。互いの将来の幸せを語り合えるようになれれば、共に幸せになれます。
相手の幸せを考える
愛において、自分ができることは相手の幸せを考えることです。もし、愛し合える相手なら、相手が自分の幸せを考えてくれます。でもそれは相手のすることです。期待しすぎず、してくれたことには素直に喜び、感謝し、報いよう。愛する相手の幸せを考えること自体が自分の幸せです。
困難を共にする
もし愛の過程で困難が発生したら、チャンスだと思おう。共に困難を乗り越えれば、強い絆がつくられます。相手の困難を自分たちの困難とできるのも愛です。
愛について悩んだ時には、思い出してヒントとしてみてはいかがでしょうか。そして、ここでかいたように、「~しよう」と自分にかけ声をかけてみよう、と締めくくられています。(サイトからの引用は以上です。)
結婚の目的を共有すること
いかがだったでしょうか。私はやはり結婚の目的を共有することが大切ではないかと思いました。それぞれが神様の願いや思いを中心にして生きるという目的を明確にし、お互いにその目的を達成するための強力なパートナーであるという自覚を持つことができるなら、そのための努力にはやりがいを感じるでしょう。
努力の意味
結局、困難やそれを乗り越えるための努力が大変だということではなく、そこに意味があるのかということが問題なのではないでしょうか。その意味をお互いに良く理解しているのであれば、喜びもあると思います。神様を中心とした生き方がその原動力になると思います。
それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心として生きることを考えてみましょう。
新約聖書 使徒の働き 5章26~32節
そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右にあげられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
宗教ではなく、神様が大事
投獄したはずの使徒たちが宮で群衆に教えているという知らせが入り、宮の守衛長や役人たちは使徒たちを議会に連れて来て、問いただしました。ペテロと使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです。」と答えました。このように大切なことは宗教ではなく、神様に従うということだと思います。
神様が目的。宗教は手段です
もちろん宗教の全てが間違っているということでもないと思います。神様を中心として生きるための励ましとなり、有益であるなら、宗教も役に立つと思います。しかし、それが妨げられるなら、宗教も害になることがあると思います。宗教は目的ではなく、神様を中心とした生き方をサポートする手段であることを知るべきだと思いますが、時に宗教そのものが目的と勘違いされてしまうことがあるようです。注意が必要だと思います。