人生の目的
人生には目的があるという人もいれば、ないという人もいるようです。人生とは何かと考えることが目的だという人もいれば、とにかく生きることが人生の目的だという人もいます。何事も目的がなければ無駄に時間を過ごすことになってしまうから、人生には目的を設定しなければならないと言う人もいます。皆さんはどう思いますでしょうか。
かつて人生に目的はないと思っていた頃
私たちの命は偶然であって、人生に目的などないとすれば、生きる意味もないということになってしまうと思います。かつて私はそう思っていました。毎日をただ面白おかしく生きることができれば、それでも良いのかもしれませんが、その頃の私には、人生はあまりに長く、早く老人になって死んでしまいたいと思っていました。
人生の目的はある
人生の目的について人はいろいろ考えることはできますが、造られた存在である人間が自分で考えても分かるはずもありません。私たちの存在の目的、理由は、私たちを造った神様の中にしかありません。私たちの存在は偶然ではなく、神様によって造られたということが分かった時に、私は初めて自分には存在理由があるということを知りました。嬉しかったですね。今でも思い出します。「私には目的がある!」
私の具体的な目的は何か
「私には目的がある!」 それだけでも嬉しいことです。今、この地上に生きているという事実こそがその証拠である!それだけでも凄いことです。でも、私の具体的な目的も知りたいですね。そして、的外れなことをなるべくしないで、目的に適った人生を送りたい。そうすれば、「我が人生に悔いなし!」という人生を生きることができる訳です。わくわくしますね。
正しく生きること
私の具体的な目的は何か。それは人それぞれにあると思いますが、共通して言えることはまず正しく生きることだと思います。私たちは正しく生きるために生まれて来たのであって、悪を行うために生まれて来た訳ではないと思います。悪とは何か。悪はどこから出て来るのか。それは自己中心から出て来ると思います。
神様を中心にして生きること
自己中心を達成すれば幸せになれると誤解している人もいるかもしれませんが、それは自分を滅ぼしてしまうし、人も滅ぼしてしまうことが分かりました。このことに気が付くことは人生の大転換点になると思います。自己中心は正しくないと思います。正しさは神様の中にあります。ですから、自分の願いや思いを達成しようとするのではなく、神様の願いや思いを達成しようとすることが大切だと思います。そこに自分の幸せも人類の幸せもあると思います。
神様の願いを求める人生
今、私は神様が願う人生を生きたいと願っています。失敗することもありますが、また神様を中心にすることができます。「我が人生に悔いなし!」 そんな感じです。神様の願いを自分の願いとすると良いと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様の願いに思いを向けてみてください。
新約聖書 使徒の働き 5章33~42節
彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。
それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。
もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」
彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名(みな)のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
それは自己中心だと思います
ユダヤ教の議会の人々は怒り狂って、使徒たちを殺そうと計ったとあります。それは彼らの思い通りにしたい、思い通りにならないことに対する苛立ちであり、自己中心に他ならないと思います。それは正しいことではないと思います。
あるのは宗教ではなく、自己中心か、神中心か
しかし、さすがにすべての人に尊敬されているガマリエルという人は違いました。彼は自己中心ではなく、神様を中心にすべきだと主張したのだと思います。ですから、それはユダヤ教の議会の人であるかないか、クリスチャンであるかないか、仏教徒であるかないかということとは関係ないと思います。大切なことは神様を中心にしているのか、それとも自己中心なのかということではないでしょうか。
神様を中心とする者の喜びの基準
それにしても使徒たちは「御名(みな)のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」とあります。御名とは神様の名前という意味です。神様を中心とするなら、はずかしめられることもまた喜びとなることが分かります。神様を中心とするなら、そんな生き方ができるようになることを思わされます。