このブログで何度かご紹介させていただいている「人間関係の悩みのヒント」というサイトには、「子育てについて」というテーマも取り上げられています。そこに「思い通りにならないイライラ」という記事がありましたので、今日はご一緒に考えてみたいと思います。まずはサイトからの抜粋です。
子育てのイライラにはいろいろあります
そもそも子供(特に、幼い頃)は親の思い通りには動いてくれませんから、ついイライラしてしまいます。しつけや発育が思い通りにいかないイライラ、自分が思うように子育てができないイライラ、まわりの人(配偶者、親など)に対する不満、自分の今の生活に対する苛立ちなどもあると思います。そういう様々なイライラがたまっている時に、子供の「我がまま」な言動を目の当たりにすると、イライラが爆発してしまうのではないでしょうか。自分のイライラを子供に当たってしまうのでは、子供がかわいそうです。
子供が思い通りに動いてくれないのは「当たり前」
子供の言動にイライラしそうな時には、子供が思い通りに動いてくれないのは「当たり前」と考え、心の中で「ヨシヨシ」と言いながら、イライラの感情を抑えることができたら、と思います。そして、「こういう××の時(所)もあるけど、でもかわいい」と考えることができれば、イライラもおさまるのではないでしょうか。
「やさしい気もち」で接する
もう一つは、ふだんから子供に「やさしい気もち」で接することを心がけられたら、と思います。やさしい気もちがあれば、イライラもしにくいはずです。人に対する自分の「やさしい気もち」は心地いいものです。(なかなか難しいのですが)
子育ての中でちょっとぐらいイライラしてしまうことがあるのはしかたがないと思います。そういうイライラをためないように生活することが大切です。(サイトからの抜粋は以上です。)
親に従うことは良い事だと教える
子供は親の思い通りにはならないというのも事実ですが、意外に親の言う通りに従うことも事実だと思います。先週も書きましたが、親の言うことに従うことは良い事だと子供に教えることは大切な教育だと思います。子供自身が親に聞き従おうとしているなら、その子供の努力を助け励ますことは出来ると思います。
親自身も成長する
ただし、それは親の自己中心ではいけないと思います。あくまでも子供の幸せのために、子供を愛して、子供自らが正しく生きることができるようにすることです。もちろん完全な親はいませんので、親の自己中心や不完全さはあると思います。でもそれは正しくないことですから、正当化しないで改めなければならないと思います。子供も1度で身に付く訳でもありません。忍耐を持って子供と向き合い続けることが大切だと思います。それが愛だと思います。
神様はそのような正しい努力を助けてくださると思っています。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 10章1~8節
さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。
御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
神様を中心にして生きるローマ人のコルネリオ
コルネリオはローマ人で、ユダヤ教徒ではなかったと思います。でも、彼は敬虔な人で、家族みんな神様を恐れかしこんでいたとあります。いつも神様を中心にして生きる人だったということだと思います。その結果、彼はユダヤ人を蔑んだりせず、好意を持ち、多くの施しをしたのだと思います。そして、いつも神様に祈っていました。そういう生き方が大切ではないかと私は思います。
神様の評価
そのコルネリオに神様の御使いが現れ、「あなたの祈りと施しは神の前に覚えられている」と告げました。神様の思いや願いを中心にして生きようとする、その生き方は神様の前に覚えられているということではないでしょうか。それは人からの評価ではありません。神様の評価です。それが大切ではないでしょうか。
神様を中心にして生きようとする人々
コルネリオの側近の部下の中にも敬虔な兵士がいました。コルネリオのそのような生き方を見て、神様を中心にして生きる部下も現れたといのでうことではないでしょうか。もちろん、コルネリオも完璧な人だったとは思いません。欠点もあったことでしょう。でも、いつも神様を中心にして生きようとしていたということではないでしょうか。そのように生きましょう。