「我が人生に悔いなし」と言える人生

道しるべ

人は「人生の目的」と呼ぶ

いつ、どこで、この人生を終える時が来たとしても、「我が人生に悔いなし」と思える人生を生きたい。誰しもそう思うのではないでしょうか。それを人は「人生の目的」と呼ぶのだと思います。

こんなはずではなかった

たとえ大きな実績を残したとしても、たとえ人々から高い評価を得たとしても、また、たとえどんなに大きな財産を築いたとしても、「こんなはずではなかった」という人生では一体何の意味があるのでしょうか。

もっと究極的な自己満足

それはこの世の中の評価ではないと思います。自分が本当にそれに満足できるかどうかということだと思いますが、単なる自己満足でもないでしょう。人は単なる自己満足では満足できないものではないかと私は思います。人はもっと究極的な自己満足、つまり決して揺らぐことのない自己満足を求めていると思います。

「確信」とは何か

それを私は「確信」と呼んでいますが、どうしたら「確信」を持つことができるのでしょうか。それは天地万物を造り、私たち人間を造った神様の中にしかないと思います。結局、人間が作りだした目的は、人間的な満足しかなく、そこに普遍的確信を持つことはできないと思います。

神様の前に正しく生きる

しかし、神様が私たち人間を作った目的に適った人生は、決して揺らぐことがありません。時代が変わり、人が変わり、社会が変わっても、神様が人を作った目的は変わりません。それは神様の前に正しく生きることです。昔から日本人は「お天道様が見ている」とそれを表現しました。

それ自体が尊いこと

神様の前に正しく生きたために、損することがあったとしても、それは損ではありません。不正を行って得したと思っていたとしても、実は損をしているのです。神様の前に正しく生きるとは、そのために人からの信頼を得たり、人生が成功に導かれるという結果も伴うものだと思いますが、そのためにすることではなく、それ自体が神様の前に尊いことだと思います。

イエスの教え

むしろ、善行は人に見られないようにしなさいとイエスは教えました。それは人に見られないで、神様に見ていただくためだとイエスは教えたのです。それはまさに日本人の心ではないでしょうか。

日本人の心

このようにキリスト教によらずとも、日本人の心にはイエスの教え、聖書の信仰が引き継がれているのです。それは一言で言えば、神様を中心にして生きるということです。そこに悔いのない、本当の人間の生きる道があると思っています。

キリスト教、宗教とは切り離して

どうぞキリスト教、宗教とは切り離して、神様を中心にして生きるという生き方について考えてみてください。それが人生の目的だと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 14章8~18節

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。

パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐにたちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群集といっしょに、いけにえをささげようとした。

これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群集の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち。恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。

人間を神様にする間違い

ルステラという町では、パウロとバルナバは神のように迎えられました。しかし、パウロはその間違いを指摘しました。日本でも顕著な働きのあった人を神にしてしまうことがありますが、大切なことは、その人を神にして崇めることよりも、その人が何を教えたのかを学ぶことではないでしょうか。

神様を中心にして正しく生きること

パウロは人間を神様にして宗教にしてしまうことはむなしいことだと教えました。天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返ること。つまり、神様を中心にして正しく生きること。そのために福音、つまり、イエスがメシヤとして人間の罪を取り除いたので、人は神様を中心にして生きることができるようになったという「勝利の知らせ」を伝えているのだと言いました。

宗教的な儀礼ではなく、神様を中心にして正しく生きることが大切だと思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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