人間関係は成長のための道場

引きこもる男性

悩みの大半は人間関係

人間関係は多くの人に喜びをもたらすと同時に悩みにもなります。人間関係が良好であれば、人生はハッピーですが、人間関係が悪いと、もう生きていく力も沸いて来ないという人もいるかもしれません。私たちの悩みの大半は人間関係に関するものかもしれません。

人間関係なんてなければいいのに?

中には、人間関係が煩わしくなって、山にこもりたいという人もいるかもしれません。一人で生きることが苦ではないという人であれば、なおさらそうなる傾向が強いかもしれません。でも、人間関係は人間的に成長するためには必要なものだと私は思います。人は人によって研がれるというのは、確かにそうだと私も思います。

対人関係の中で自分を知る

でも、それは辛くても耐えましょうとか、人に気に入られるようにしましょうということではありません。それよりも、対人関係の中で自分を知るということが大事ではないかと私は思っています。人と接して初めて、腹が立ったり、喜んだり、怖くなったり、自分の中に反応が起こるのではないでしょうか。

人間関係をうまくやることより大事

自分はこういうことに腹が立つんだ。こう言われると嬉しいんだ。そういうことは人間関係の中で分かることで、山に一人でこもってしまうと分からなくなってしまうのではないかと思います。そういう意味で、人間関係はうまくやるよりも、自分を知るという点で有益だと私は思います。

自己中心性を知れば良い

もちろん、うまくやらなければならない人間関係というものはあると思います。でも、ちょっとそれは置いておいて、まず、人間関係とは自分を知る手段と考えてみてください。そうすると、自分がいかに自己中心的な人間か分かるのではないでしょうか。そこが大切だと思います。人のせいにだけしていると、そこに気づけないと思います。

実は相手も自己中心な人間です

そして、相手も自己中心的な存在だと気付くことが大切です。人間関係をうまくやりたいのであれば、自分の思いを中心にするのではなく、相手の思いを中心にしてあげれば良いと思います。でも、いつもいつも相手の思いを中心にしていると、その人の自己中心が肥大化してしまって、ますます自己中心的な人になってしまう危険性もありますので、見極めも大切ですね。

神様を中心にすること

しかし、もっと大事なことは、自分でも相手でもなく、神様を中心にすることだと思います。つまり、ただ自分や相手を喜ばせることではなく、神様の願いや思いを中心にして、神様の前に正しく生きることだと思います。このように人間関係という実践道場で、私たちは神様の前に成長していくことが大切だと思います。「まだまだだなあ。」それで良いと思います。でも、神様を見上げて成長を目指しましょう。神様も助けてくださると思います。祝福をお祈りしています。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人たちの記録です。キリスト教の教典としてではなく、私たちが神様に思いを向け、神様を中心にして生きる上で、とても参考になると思います。

新約聖書 使徒の働き 17章31~34節

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

神様は公正に判断してくださる

アテネの人々に語ったパウロの話の続きです。「義」とは正義、神様の正しさという意味だと思います。「さばく」とは、裁判のことですから、私たちがどのように生きたのか、神様は公正に裁くということだと思います。自己中心ではなく、神様を中心にして生きたかどうか、それ自体が私たちにとって祝福ですが、神様はそれを見ていてくださり、公正に判断してくださるということだと思います。

大切なことは「キリスト」という名称ではない

ここでパウロは「ひとりの人」、「その方」と言っていますが、それはイエス・キリストを指していることは明らかだと思います。しかし、パウロはギリシヤ語で「キリスト」という言葉も、ヘブライ語で「メシヤ」という言葉も使っていないということに注目したいと思います。これまで、イエスの弟子たちも、パウロも「キリストの証人」とか、「キリストを宣べ伝える」と言っていたことが新約聖書には記されていますが、それはユダヤ人にとっては特別な意味を持ち、言わんとしている内容のポイントを示すキーワードだったのでしょうが、ギリシヤ人にはそうではないということではないでしょうか。大切なことは、「キリスト」という名称ではなく、神様がひとりの人を立てたということ。その方を死者の中からよみがえらせることによって確証を与えたということではないかと思います。

死者の復活

死者の復活のことを聞くと、ほとんどのアテネの人たちは去って行きました。頭の中で考えているのであれば、死者の復活はあり得ないか、それは何か別の意味があるのかということになるのかもしれません。しかし、天地万物を造り、命を造った神様が死者を復活させることができないということがあるでしょうか。目には見えませんが、そういう神様は確かにおられるということだと私は思っています。死者の復活はその証拠だとパウロは言ったのだと思います。ギリシヤ人とは違って、私たち日本人には受け入れることができることではないかと私は思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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