イスラエル系渡来人の秦氏と聖徳太子の関係
京都の太秦には秦河勝が建立した広隆寺があります。秦河勝は聖徳太子の側近として活躍した人物ですが、聖徳太子から弥勒菩薩を賜り、広隆寺を建立して安置しました。実は聖徳太子自身も秦氏同様渡来人だったという説もあるようです。私がメシアニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れるユダヤ人)と推測する秦氏と聖徳太子は深い関係がありました。
聖徳太子の名前
聖徳太子という名前は死後130年経ってつけられた名前で、本当の名前は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と言いました。この名前は明らかに聖書の影響があると多くの人が指摘しています。坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から紹介いたします。
馬小屋で生まれた皇子
厩戸皇子という名前は、厩戸(=馬小屋)からきており、「馬小屋で生まれた皇子様」という意味になる。しかし、この「馬小屋」という呼称は、仏教的な考え方にも、日本の農耕民族の伝統にも馴染まないと思われる。そのような理由から、久米邦武氏のように聖徳太子の伝説に、キリストが馬小屋で生まれたという聖書の話が取り込まれたと推測している研究者もいる。
誕生に関する伝説
新約聖書にはイエス・キリストの母マリヤの前に大天使ガブリエルが現れ、イエスの誕生を告げたとある。同様に『聖徳太子伝暦』などの伝記によると、聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の夢に救世観音(くぜかんのん)が現れ、太子の誕生を予告したと書かれている。
また、キリストが馬小屋で生まれたことはよく知られているが、聖徳太子も母親が馬小屋にぶつかった拍子に生まれたと伝えられている。ここから厩戸皇子と呼ばれるようになった。
大工の子
その他、イエスは大工の子供であり、自身も大工だったが、不思議なことに聖徳太子も「大工の祖」と呼ばれている。また『日本書紀』に、聖徳太子が片岡山で飢えた人に衣食を与え、その飢えた人が死んで葬られたが、数日後、棺の上にはただ衣しか残っていなかった、という物語がある。・・・キリストが死んで葬られ、のちに復活し、その墓には衣しか残っていなかった、という物語に大変よく似ている。
聖徳太子の伝説にメシアニック・ジューの影響
聖徳太子の名前や伝説にキリストの影響があることは明らかだと思います。それは秦氏などのイスラエル系渡来人によってもたらされたものであろうと私も思います。また、秦氏はネストリウス派のキリスト教である景教徒だったのではないかという説もありますが、私はメシアニック・ジューだったのではないかと考えています。そのことについてはまた来週お伝えしたいと思います。
古代日本に聖書の信仰の影響があった
いずれにしましても、古代日本に聖書の信仰の影響があった可能性を否定することはできないでしょう。日本人の信仰は聖書の信仰の影響を受けていると思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書には神様を中心にして生きた人たちの記録が記されています。キリスト教という宗教の教典としてではなく、私たち日本人の信仰のルーツとして、神様に思いを向け、神様を中心として生きる上で聖書は大変参考になる本だと思います。
新約聖書 使徒の働き 19章1~7節
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。
「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。
これを聞いたその人々は、主イエスの御名(みな)によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。
「聖霊」について知る
ここに書かれている現象はどういう現象なのか、私は自分の経験を通して説明することはできません。ただ、神様は霊的な存在ですので、神様の霊である「聖霊」について知ることは大切なことではないかと私は思います。
神様から与えられる思い
神様は私たち人間が考え出した存在ではなく、確かにおられると思います。たとえば、どうしたら良いのか分からないので、神様に教えていただきたいと思って祈る時、確かに祈る前に私の思いの中には答えがなかったにも関わらず、祈っている間に、こうすれば良いという思いが与えられることがしばしばあります。それは私の頭の中から出て来たというよりも、神様から思いが与えられたと表現した方が私にはしっくり来るように感じられます。
「聖霊」に従う生き方
よくインスイレーションが与えられると言いますが、インスピレーションというのは自分の中から出て来る思いではなく、神様から与えられるもののように思います。このブログでは、自分の思いではなく、神様の思いを中心にして生きることをお勧めしています。そこに深い満足があると私自身実感しているからです。それは神様の霊である「聖霊」に従うことだと表現することもできると思います。
知識だけでなく生き方
今日の聖書箇所に出て来るエペソにいた弟子たちも、聖書について、神様について、ある程度の知識を持っていたのだろうと思います。しかし、自分の思いや考えを自分の中心から追い出して、神様の霊を心の中心に受け入れて生きるということをまだ知らなかったのかもしれません。
神様の霊を中心にして生きる
皆様もぜひ、神様について、頭で理解するだけでなく、神様の霊を心の中心に受け入れていただきたいと思います。神様の霊が私たちに何が正しいことなのか、どう生きるべきなのか教えてくださると思います。
いかがでしたか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。