我が家のホームスクーリングを紹介します

漢字の勉強

我が家では長男が中3の途中から、長女が小6、次女が小5から、学校には行かずに、家庭で教育をしました。その内容をご紹介して、皆様の参考にしていただければと思います。

信仰で始めました

きっかけは「チアにっぽん」というホームスクーリングをサポートする団体のセミナーに参加したことでした。それは今から16年ほど前、ホームスクーリングは神様の御心だという信仰だけで始めましたが、不思議と道が開かれたと思います。

教育委員会、校長との面談

まず、教育委員会に出向き、学校ではなく家庭で、聖書に基づいた教育をしたいと話したところ、よく理解してくれました。立場上、どうぞとは言えませんが、親がそのように責任を持って子供の教育にあたることは素晴らしいことだと言ってくれました。小学校の校長には教育委員会から伝えておきますが、校長にも直接会ってくださいということで校長とも話しましたが、とてもよく理解してくれました。

長男は修学旅行を終えてから

こうして、長女と次女のホームスクーリングが先に始まりました。長男はどうしても修学旅行に行きたいということで、それが終わってからの合流となりました。我が家のホームスクーリングは私がかつて高校の教師だったということもあり、ある程度時間割を決めて行いました。主な教科としては、各自聖書を読む時間、聖書を勉強する時間、国語、英語、算数、体育は毎日行うようにしました。

それぞれの進度や興味に合わせて

我が家の場合には、幸いにも私も子供達と過ごすことができましたので、私と妻で分担し、ほぼ個人レッスンのような形で勉強を進めることができましたので、算数など個人的に躓いているところに時間をかけることもできました。個人レッスンですから、クラス全体での学習よりも能率が良いことは間違いないと感じました。

子供の状態を知る

我が家の子供達は初めからホームスクーリングではなく、長男は中3まで、ほぼ義務教育は学校で受けました。長女も小5まで、次女は小4までは学校教育を受けていた訳ですが、皆さんはお子さんの学校での学習状況をどのくらい把握されていらっしゃいますでしょうか。正直言って、私は良く知りませんでした。実際に子供達に個人的に勉強を教えてみて、こんなに理解していなかったのかと驚きました。これでは、学校に行っていても、授業について行くことはできなかっただろうと思いました。

1つの選択肢

今日は学習に関して少し書きましたが、こうして振り返ってみると、我が家ではホームスクーリングをして良かったと思います。私は全てを理解してホームスクーリングを始めた訳ではありませんでしたが、神様は良くご存知だったのだと思います。大切なことは方法ではなく、信仰だと改めて思わされています。神様を中心に考えて参考にしていただければと思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう

聖書は神様を中心にして生きた人々の記録です。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めいたします。

新約聖書 使徒の働き 19章23~41節

そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。

「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。

これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」

そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのは、エペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場へなだれ込んだ。

パウロは、その集団の中に入って行こうとしたが、弟子たちがそうさせなかった。アジヤ州の高官で、パウロの友人である人たちも、彼に使いを送って、劇場に入らないように頼んだ。ところで、集会は混乱状態に陥り、大多数の者は、なぜ集まったのかさえ知らなかったので、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいた。

ユダヤ人たちがアレキサンデルという者を前に押し出したので、群衆の中のある人たちが彼を促すと、彼は手を振って、会衆に弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人だとわかると、みなの者がいっせいに声をあげ、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかりも叫び続けた。

町の書記役は、群衆を押し静めてこう言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。

これは否定できない事実ですから、皆さんは静かにして、軽はずみなことをしないようにしなければいけません。皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。

それで、もしデメテリオとその仲間の職人たちが、だれかに文句があるのなら、裁判の日があるし、地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。もしあなたがたに、これ以上何か要求することがあるなら、正式の議会で決めてもらわなければいけません。

きょうの事件については、正当な理由がないのですから、騒擾罪(そうじょうざい)に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動の弁護はできません。」 こう言って、その集まりを解散させた。

対決ではない

神様の話をしたら、不利益が生じる人々が騒ぎを起こしたという事件です。しかし、パウロたちはアルテミス神殿を汚したこともなく、女神をそしったこともないと証言されています。それは大切なことだと思います。

法律は社会の秩序のため

また、ローマは法治国家であり、訴えたいことがあるなら裁判で判断すべきだとも言われています。その通りだと思います。法律は社会の秩序を保つためにあるものだと思います。神様を中心として生きることは決して社会の秩序を乱すものではないと思います。

法律以上の基準

逆に、神様を中心としていないからという理由だけで必ずしも法律で罰せられることはありません。しかし、法律の範囲内であったとしても、それが自己中心から出たものか、それとも神様を中心としたものかは良心で判断することができると思います。法律の範囲内だから良いではないかとか、法律の範囲内でどこまでやっていいのかという基準ではなく、神様を基準にして生きることが大切だと思います。

良心の基準で生きる

どうぞ権利の主張とか、法律の範囲内だという基準ではなく、良心を基準にして、それは正しいことなのか、本当に神様に喜ばれることなのかという基準で生きていただきたいと思っています。それが日本人の基準ではないでしょうか。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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