人生の目的と信仰

ひらめき考える人

人生の目的について考える時、私は信仰を抜きにして考えることはできないのではないかと思います。人生の目的は信仰によって生きることと言っても良いのではないでしょうか。

信仰とは何でしょうか

信仰とは神様を中心にして生きることであり、それは生きる動機であり、方向性であり、またその人を動かす原動力でもあると思います。不信仰とは神様を中心にしないで、自分の思いや考えを中心にして生きることだと思います。

信仰によって生きる

私たち人間は神様ではないので、全てのことを知ることはできないと思います。つまり、私たちの知識や判断は残念ながら完全ではないと思います。完全を目指して向上を目指すことは良いことだと思いますし、そうすべきだと思います。しかし、完全になることはできないと私は思います。私たちができることは不完全ながらも信仰によって生きることではないでしょうか。

方法論より大切なこと「信仰」

「信仰から出ていないことは、みな罪です。」というパウロの言葉が新約聖書の中にあります。私もそう思いますし、それしか人間にはできないと思います。つまり、私たちは神様を中心にして、神様のためにという動機で生きたら、それで良いということであり、それが最も大切なことだということではないでしょうか。何が正解だったのか。どうするべきだったのかという方法論が中心にならないように気を付けなければならないと思います。

改善は大切。でも神様を中心に改善しましょう

反省したり、改善したり、成長したりすることは大切なことだと思います。でも、一歩一歩、神様を中心にして生きる過程で改善や成長はもたらされるものではないでしょうか。不完全な自分を責めることは決して正しいことではないと思います。私たちは不完全なものですが、ただ神様に喜ばれたい、その一心で生きること。それが信仰であり、人生の目的ではないかと思います。

動機を検証する

ですから、私たちはお互いに神様を中心にして生きる、その思いを尊重すべきだと思います。その結果だけを見て、人のことをとやかく言うのではなく、その動機に目を留めることが大切ではないでしょうか。仮に歩む道が別々であったとしても、神様のために成された行為は尊いものだと思います。信仰によって歩みましょう。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう

聖書は神様を中心にして生きた人々、つまり、信仰によって生きた人々の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心にして生きるために大変参考になると思います。自己中心を退けて、信仰によって生きるために、毎日、時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めします。

新約聖書 使徒の働き 20章7~12節

週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起してみると、もう死んでいた。

パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。

人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。

パン裂きの新しい意味

これはアンテオケに戻る途中、トロアスという町での出来事です。週の初めの日とは日曜日のことでしょう。パンを裂くとは、ユダヤ教の過越しの祭りにおいて、かつてイスラエルの民が神様の力によってエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝って、パン種の入っていないパンを裂いて食べたことを指していると思いますが、そのパンとは「十字架で裂かれるわたしのからだのこと」とイエスが弟子たちに教えられましたので、イエスの十字架によって罪から解放されるという新しい意味のもとに人々が集まってパンを裂くようになったのではないかと思います。

死んだ青年が生き返った

この出来事が何を意味しているのか私には分かりません。むしろ、特別な意味はないように思いますので、単なる事実の記録ではないかという気がします。死んだ青年が生き返るということが本当にあったのか確かめる術はありませんが、あったのかもしれません。

パウロの冷静な態度

ただパウロの冷静な態度に驚かされます。私だったら「大変だ。大変だ。」ということになっていたのではないかと思いますが、何事もなかったかのように話を続けています。なかなかそういう域には達しませんが、神様を中心にして生きるというのはそういうことなのかもしれません。全ては神様が支配しておられる。良い事も、悪い事も、人間的には判断しない。ただ信仰によって、神様を中心にして、神様に従って生きる。それで良いという生き方ではないでしょうか。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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