「モチベーションアップの法則・生きる意味」というコラムから一部をご紹介します。
さて、説明が難しいところですが、ヴィクトール・フランクル(心理学者)のいう「意味」とは、私を超えた「向こう」から、これをなすべきだ、この意味を実現すべきだと呼び掛けてくるものだといいます。
私たちが問いかけられているのは、「あなたは何をしたいか」という自己実現を目指す問いではなく、「人生はあなたに何を求めているか」「何が(誰が)あなたを必要としているか」「あなたが実現すべき意味は何か」という意味発見への問いだということです。
「自分のために」を超えて、何かに必要とされる喜び、善意の中で人の役に立てる喜びほど、生きる意欲をかき立てるものはありません。使命感を持つことほど精神的に充実することはありません。
ここでもう一つ意味発見へのヒントとして、「マザーハウス」という会社を設立し奮闘している山口絵理子氏の著書よりその一部を紹介します。彼女は「途上国から世界に通用するブランドをつくる」という理念のもとアジア最貧国の一つであるバングラディッシュでバックの生産・販売を手がけている。
バングラデシュで起業しようと決意した時も、周りは反対した。起業なんてそんなに簡単じゃない。できるわけない。 ただ、そんな周りの声の中、私が拠り所にしたことは、たとえば尊敬する人の言葉でも、素晴らしい本でもなんでもなく自分自身だった。
食べ物が十分でない、綺麗な服もない、家族もいない、約束された将来もない。そして生活はいつも政治により阻害され、綺麗な水を飲むにも何キロも歩かなければならない。そんな人たちが毎日必死に生きていた。 ただただ生きるために、、生きていた。そんな姿を毎日見ていたら、バングラデシュの人が自分に問いかけているような気がした。「君はなんでそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?」って。
自分は一体何をしてきたんだ。他人と比べて一番になるなんてそんなちっぽけなことに全力を注ぎ、泣いたり笑ったり。こんな幸運な星の下に生まれておいて、周りを気にして自分ができることにも挑戦せず、したいことも我慢して、いろんな制約条件を自分自身の中だけで作り出し、自分の心の声から無意識に耳を背け、時間と共に流れていく。他人にどう言われようが、他人にどう見られ評価されようが、たとえ裸になってでも自分が信じた道を歩く。それがバングラデシュのみんなが教えてくれたことに対する私なりの答えだ。 (裸でも生きる/山口絵理子)(サイトからの引用は以上です。)
それは神様から来るもの
いかがでしたでしょうか。それは神様からの問いかけに対する応答だったのだと私は思います。このように、私たちが生きる意味は自分の中にではなく、神様の中にあるものだと思います。それは具体的には一人一人皆違うものだと思いますが、自分ではなく、神様が自分に何を望んでいるのかと問うならば、それは導かれて来るものだと思います。
これまでの歩みの中にすでに神様の導きがあると思います
今日までの人生の歩みの中にすでに神様の導きはあると思います。これまでの人生、今置かれている状況は、決してこれからをどう生きるのかということと無関係ではないと思います。今、置かれているところで、神様に思いを向けて、「神様、どうして今日までこのように導いてくださったのですか」と問いかけてみてください。神様はあなたに何と言われるでしょうか。
神様に思いを向けてみましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を求めて生きた人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、また宗教としてではなく、神様に思いを向けて生きるために聖書を参考にしていただきたいと思います。
新約聖書 使徒の働き 24章10~16節
そのとき、総督がパウロに、話すようにと合図したので、パウロはこう答えた。「閣下が多年に渡り、この民の裁判をつかさどる方であることを存じておりますので、私は喜んで弁明いたします。
お調べになればわかることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上って来てから、まだ十二日しかたっておりません。そして、宮でも会堂でも、また市内でも、私がだれかと論争したり、群衆を騒がせたりするのを見た者はありません。
いま私を訴えていることについて、彼らは証拠をあげることができないはずです。しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。
私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
パウロの弁明
パウロに反感を持つユダヤ教の大祭司たちは、ローマの総督の前でパウロを訴えました。その訴えは事実に基づくものとは言えず、感情的な訴えであったと思います。その訴えに対してパウロは弁明しましたが、それは言い訳ではなく、裁判という場であるので喜んで弁明するのだとパウロは言っています。
パウロの思い
パウロには自己保身の思いはなかったと思います。真実のためであるなら死ぬ覚悟はできていました。ただ、裁判の場ですから、事実について弁明すべきと考えたと思いますし、それは神様の前で正しいことだと判断したのだと思います。
そのために生きているという強さ
パウロの弁明の内容は彼らの事実誤認は正しましたが、自分が確信を持って主張していることに関しては、言い訳をするでもなく、何が自分に有利になるとか、不利になるかという基準でもなく、はっきりと主張しました。そのために生きているという確信から来る強さであり、神様を中心にしているという潔さでもあると思います。
パウロの確信。ここがポイント!
「私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。
私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」
違う神様ではない。同じ神様を中心にして生きている。それは聖書に反するものでもない。パウロは宗教ではなく、神様を中心にして生きたのだと思います。
神様を中心にして、正しく生きる。そこに「生きる意味」があると思います。
いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。