思いやりの日本人

ラーメン屋のれん

さりげない私たちの日常生活の中にも日本人の心を見ることができるようです。こんなブログの記事を読みましたのでご紹介いたします。

あるラーメン店での出来事

年配の夫婦二人で切り盛りしているそのお店は、地元でも美味しいと有名な繁盛店。お昼時ということもあり、大勢の人で溢れていた。食券を買って、券売機の隣にあるセルフサービスの水を取ろうとしたが、グラスが無い。接客担当の奥さんにその事を告げると、「すぐにグラスを用意します。」とのこと。

その後少しして、奥さんが新しいグラスを追加。早速水を取りに行くことに。すると同じくグラス待ちで、右隣に座っていた女性が、何と自分の分を取りに行くついでに、私の分まで持って来てくれたではないか!

素敵すぎるぜ、お姉さん!

その後注文したラーメンが到着。カウンターに置いてあったレンゲ入れから、最後の 一本を手に取り、スープから頂くことに。数分後、左隣に座っていた男性客が食べ終わり、退店。奥さんが片付けやすいように、器をカウンターの一段高い位置に置き、その横に空になったレンゲ入れを置いて一言。

「レンゲ無くなっちゃったんで、入れといてください。」

そう言い残して、にこやかに去って行った。

眩しすぎるぜ、お父さん!

お父さんに続いて何人かが帰った為、テーブル席がひとつと、その他に飛び飛びのカウンター席が4席空いた。長蛇の列の最初は高校生らしき男女3人、続いて小学生くらいの男の子を連れた夫婦。当然テーブル席に、高校生達が案内された。

すると先頭の高校生が後ろの2人に一言。「俺ら席は別々でも構わないけど、後ろの親子は続きの席じゃないとマズイだろ?3席続きでは、なかなか空かないから、テーブル席は後ろの親子に譲るぞ。」 当然とばかりに頷く2人。

「有難うございます!」と頭を下げる両親に、「別にお礼を言われるようなことでもないっす。」と サラリと言ってのけた後、颯爽〔さっそう〕と店の奥に歩いていく高校生3人組。

惚れてまうぜ、高校生!

片付けやすいように、カウンターの上段に器を乗せ、お礼を言って出て行く他のお客さん達を見ながら、日本人の持つ国民性の素晴らしさを、改めて実感。普段も美味しいラーメンが、何倍にも美味しく感じられた。いや~改めて考えてみると、日本人は本当に素晴らしい人間ばかりですよね。(サイトからの引用は以上です。)

この記事を書かれた方も素敵ですね!

他人への配慮。これが日本人ですね。自分さえ良ければいい。それじゃあ悲しいですよね。私たち日本人は太古の昔から自分の損得ではなく、神様の前に恥ずかしくない生き方を求めて来た姿だと思います。今こそ大切にしたい心ですね。

神様を中心にする

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にすることを求めた人たちの記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向けるために読んでいただきたいと思っています。大切なことは何か特定の宗教の信者になることよりも、神様を中心にして生きることだと思います。

新約聖書 使徒の働き 24章24~27節

数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。

それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。

二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。

総督ペリクス

ローマの総督ペリクスはパウロに個人的な憎しみは持っていなかったと思います。むしろ、パウロの話に関心もあったように思います。しかし、パウロを守ることは正しいことだという正義感までは持ち合わせていなかったのではないでしょうか。せいぜいユダヤ教の体制派の人たちがパウロを感情的に訴えるままに、事実確認もせずに有罪とする訳にはいかないくらいの考えだったのではないでしょうか。

良心に感じる恐れ

パウロが正義と節制とやがて来る審判について話すと、ペリクスは恐れを感じたとあります。ペリクスは極悪非道な人ではなかったと思いますが、悪い事をしたことがなかったかと言えば、良心に責められることがあったのではないでしょうか。それで神様を恐れたのではないでしょうか。

それは良い事

私はそれは良い事ではないかと思います。悪い事をしても、神様を恐れないようになれば、それこそ恐ろしいことです。悪い事をして神様を恐れる心を持つことは健全なことだと思います。旧約聖書にも「神様を恐れることは知恵のはじめ」だという言葉があります。

その時にどうしますか

大切なことは、その時にどうするのかということだと思います。残念ながらペリクスは良心の声に従わないで、パウロを帰らせてしまいました。神様を中心にして生きるという幸いな生き方が目の前まで来たのに、そこから目を背けてしまったのだと思います。

神様か、言い訳か

もちろん完全な人はいないと思います。しかし、神様を中心にして生きようとしているのか、それとも神様から目を背け、このくらいは普通だとか、私はそれほど悪くない、もっと悪い人はいるなどと言って、自分を正当化し、良心の声を誤魔化し、自分を中心にして生きるのでしょうか。それは大きな違いだと思います。

神様を中心にする幸い

私は全ての人に神様を中心にして幸いな人生を生きて欲しいと願っています。どうぞ良心の声を聞くなら、自己弁護ではなく、確かにそれは私の足りないところだと認めて、神様の思いを中心にして歩んでいただきたいと思います。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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