遠藤周作原作「沈黙」が映画化されたそうです。この映画について、「映画が語らない真実」と題するコラムを読みました。私がこのブログでお伝えしたい事を、私以上に詳しく調べて書いていらっしゃいましたので、一部ですが、ご紹介いたします。関心のある方は全文を読んでみてください。
スコセッシの励まし?それとも皮肉?
過日、スコセッシ監督の映画「沈黙」の試写会が、牧師や神父などを対象に行われ、招待していただいたので観に行ってきた。エンドロールで、スコセッシ監督からのメッセージが浮かび上がった。
「日本の牧師/神父たちに捧ぐ」
僕はこれはなんの皮肉かと思った。
遠藤周作はカトリックなのか?
原作者の遠藤周作は、日本を代表するカトリック文学者として知られている。しかしこの宗教は、彼が叔母の影響で着せられた洋服であると彼自身著作の中で述べているように、彼が自発的に受け入れたものではない。(中略)つまり彼は聖書の記述を全面的には信じていなかったということだろう。
歴史的悲劇の中で、なぜ神は黙しておられたのか・・・
これはおよそすべての時代のあらゆる悲劇に当てはまるものだ。(中略)この命題に対して、成熟した信仰者なら、自分なりの格闘の末、答えを導き出し、それでも神への信頼をあつくするだろう。しかし、あるものは神に背を向ける。これはすべて神を信じるものが深く自問し、各自が答えを見出すべき問題である。(中略)個人の苦悩が、あたかもキリスト教信仰の本質であるかのように理解され、論じられる結果を生み出したことは非常に残念なことである。
なぜ、当時の日本はキリスト教を禁止したのか!
これを知らなければ、観客の多くは、不正確にデフォルメされた情報が、あたかも「歴史的真実」であると思い込む誤りに誘導されてしまう。(中略)ポルトガルやスペインなどと深く結びつき始めたキリシタン大名たちは、バテレンを通じてのキリスト教コネクションにより、それまで日本人が考えもつかなかった「同胞を外国に売り飛ばす」ことに手を染めるようになっていた。この、日本史上かつてなかったような驚天動地の出来事を知るに至り、秀吉はその背後にいる宣教師追放令を出したのである。
それでも寛容だった秀吉
それでも、国内のキリシタンが弾圧を受けたわけではない。(中略)しかし、その後に起こったスペイン船「サン=フェリペ号」事件をきっかけに、スペインが宣教師を使って植民地支配を広げているという情報が秀吉の耳に入る。ここに至って、秀吉はキリシタン禁止の法律を実行に移していったのである。(中略)しかし映画ではこの背景が語られることはない。
踏み絵は背教なのか
宣教師たちにとっては、踏み絵は、背教と同じ意味を持っていたのである。宣教師たちはそう『解釈』して、それを拒んだということだ。それそのものは勇敢である。この勇敢さには疑いの余地がないし、その信仰は純粋であろう。(中略)しかし彼らは「自分の解釈」を、素朴な日本人信者に押し付けるという致命的な間違いを犯したのである。この「解釈を押し付ける」という間違いは、今現在も受け継がれているエラーである。
善良でも不見識
大事なのは、各々が心をよくよく吟味し、自分自身が「神の道」に歩もうとしているかどうかでなくてなんであろうか。だが、日本という国に対する無理解によるアメリカ的なステレオタイプの宣教が、どれほど多くの日本人を「神の敵対者」としてしまっていることだろう。
「神社やお寺に行くな」「鳥居をくぐってはいけない」「お祭りに参加すると汚れる」
西洋化されたキリスト教の移植こそが神の意志であるという誤解に基づく宣教が繰り返されている。まるで、世界最古の文明の一つである日本の歴史や伝統が「悪」であると言わんばかりだ。このような「文化破壊」的なキリスト教宣教が、いかに欺瞞に満ちたものであるかに気づかないかぎり、日本人の心から、神の愛を遠ざけている最大の要因の一つとして、他ならぬキリスト教自体が存在しているという悲しむべき現実が是正されることはないであろう。
スコセッシは、わざわざこの問題を提起したかったのか、その真意はわからない。もしかしたら、彼はキリスト教そのものが帝国主義的であると批判したかったのかもしれない。
教訓
沈黙の時代の日本で起こったことは、世界の歴史の中で繰り返されてきた人間の誤りの1ページである。しかしこの映画では、踏み絵にいたる歴史的背景や当時の事情は一切「語られない」。だから僕は「語られていない側面」を書いた。我々の先祖が、非文明的で野蛮であったのだなどという間違った認識に立って負い目を感じることがないために。さらには、キリスト教に限らず、個人の信仰による確信を他者に強制するという過ちを繰り返さないための一助となるために。
そうでなければ、歴史的不条理の中で命を落としていったキリシタンたちに申し訳がたたない。(サイトからの抜粋は以上です。)
3つの問題提起
私はここで、1)神の沈黙について、2)宗教が政治に利用されるという問題、3)個人の確信を人に押し付けるという問題について、著者の主張に大変共鳴しました。そのことについては、明日述べたいと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は「神の道」に生きようとした人々の記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるための参考にしていただきたいと思っています。
新約聖書 使徒の働き 25章1~5節
フェストは州総督として着任すると、三日後にカイザリヤからエルサレムに上った。すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを訴え出て、パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。
彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。ところが、フェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし、自分はまもなく出発の予定であると答え、「だから、その男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが、私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい」と言った。
理不尽に2年間拘置されたパウロ
パウロはカイザリヤで拘置され、2年が過ぎていました。前任のペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいたとあります。ユダヤ教の体制側の人たちの訴えは感情的なものであり、事実に基づくものではなかったと思います。パウロの主張が正しく理解されていないという誤解もあったと思いますが、ユダヤ教の体制側の人たちは事実を客観的に確認することよりも、パウロを抹殺することを考えていたことが分かります。
暗殺から守られるパウロ
新任のフェストはよく事情を理解してはいなかったのではないかと思いますが、ユダヤ教の体制側の人たちの言い分は聞き入れずに、カイザリヤの法廷で告訴するようにと言っています。これによってパウロは暗殺を免れたと思います。
現実に働く神様の力
確かに神様は沈黙しているように思うこともありますが、パウロを暗殺から守っているようにも思います。しかし、牢獄から出られるようにはしてくださらなかったとも言えます。私たちは神様の計画を全て知ることはもちろんできるはずもありません。しかし、だからと言って神様の存在が否定されるものでもありません。たとえ死ぬことがあったとしても神様を中心にして生きようとするパウロの内に働く神様の力は説明ではなく、現実的な力だったのではないかと私は思います。それは今、私の内に働く神様の力が現実であるように。
それは自己中心ではなく、神様を中心にして生きようとする全ての人の内側に働く神様の現実的な力ではないかと思います。私はすべての人にこの現実に働く神様の力によって生きて欲しいと願っています。それは何か特定の宗教を信仰することとは別のことであることを知って欲しいと思っています。
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