生きる意味。進化論と創造論

イグアナ

進化論について

「生きる意味」について考える際、進化論の問題は一度考えておかなければならない問題だと思います。日本の学校では生命の始まりについてダーウィンの「進化論」を学ぶと思います。生命は偶然に発生して、気の遠くなるような年月をかけて進化して来たという説だと理解しています。

進化論と創造論

欧米では生命の始まりについて、進化論だけではなく、「創造論」についても学ぶようです。生命も宇宙も神様によって造られたという説です。どちらも生命の始まりについて説明する学術的な仮説ですが、日本では「進化論」しか学んでいないので、「進化論」は科学だけど、神様によって造られたというのは宗教ではないかと一般的に考えられているのではないかと思います。

進化論は証明された事実ではない

しかし、創造論も学術的な仮説であり、確かに進化論に立つ科学者もいますが、創造論に立つ科学者もいます。さらにここで確認しておきたいことは、「進化論」という仮説は決して証明された事実ではないということです。

中間種の化石は見つかっていない

もし、ネズミが長い年月をかけて鳥に進化したとしたら、進化の途中の化石があるはずですが、そのような種を超えて進化したことを裏付ける中間種の化石は一つも見つかっていません。突然変異はあったとしても、それはあくまでの種の範囲内のことだということです。蛙の子はやっぱり蛙であって、幾分体が大きい蛙が生まれたり、色が違う蛙が生まれたりすることはあったとしても、鳥が生まれたり、猿が生まれたりすることはあり得ないということです。

「生きる意味」を考える

「生きる意味」を考える際、「進化論」は絶望的だと思います。偶然によって発生した生命に何の意味があるのでしょうか。んー。偶然の背後にも大きな意思が働いていると考える人がいるなら、それを神様と呼んで差し支えないでしょう。

「生きる意味」は確かにある

生命が偶然に発生する可能性は限りなくゼロだそうです。それが起きたと信じることは科学的にはあり得ません。つまり進化論は科学的ではないということです。私たちが命を与えられて、今生きているという事実は、神様を前提にしなければ説明がつきません。それはまた、私たちが生きる意味はあるということを示しています。現に生きているというのがその証拠だということです。

「生きる意味」は神様の中にあるもの

それは私たちが自分の中をいくら探しても分かりません。なぜなら、それは神様の側にあるものだからです。

だから、神様の自分に対する思いや願いを求め、それを中心にして生きることが私たちの生きる意味なのです。それは使命と呼ぶこともできると思います。神様から与えられた使命に生きる。そこに「これでよい」という深い満足と安心が与えられるのです。神様を中心にして生きることを求めてみてください。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。大切なことは神様の願いを中心にして生きることであり、何かの宗教をやることではありません。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみてください。大変参考になると思います。

新約聖書 使徒の働き 26章1~7節

すると、アグリッパがパウロに、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。

「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。

では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。

そして今、神が私たちの父祖たちに約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。

王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。

神が私たちの父祖に約束されたもの

アグリッパはユダヤの王であり、ユダヤ人の慣習や問題に精通しているので、パウロは自分の信仰について喜んで弁明しました。それはユダヤ教の希望に関することであり、ユダヤ教体制側の人たちからは異端、つまりユダヤ教ではないと言われましたが、ユダヤ教の神様の約束に基づく希望だとパウロは弁明しました。

それは古代日本にも伝えられた信仰

それは決して新しい宗教ではありません。むしろユダヤ人が太古の昔から崇めて来た神様に忠実に従うことに他ならないとパウロは弁明しました。それはまた古代日本にもたらされた信仰でもあります。ここでパウロが証ししている神様は、私たち日本人の神様でもあるのです。

全世界の神様

それは初めユダヤ人に与えられた信仰でしたが、ユダヤ教だけに限定される神様ではなく、全世界の神様でもあります。この神様を中心として生きる事。それこそがパウロが言わんとした弁明だったと思います。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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