キリスト教、宗教の問題

キリスト教の司祭
こんなブログの記事を見ました

クリスチャンが良く使う決まり文句にこういう類のものがあります。
「神は~~~を望んでおられます」
「神は~~~と思っておられます」
「神は~~~と言っておられます」
冷静によくよく考えてみると、
これは自分自身の願望や意見を、神の名を使って正当化しているだけではないですか。
また、次のような類の言い回しも良く目にします。
「神はあなたを裁きます」
これも、結局はクリスチャン自身が裁いているのです。
クリスチャンってこういう言い回しが好きですよね。
とにかく上から目線で人を裁きたがるクリスチャンのなんと多いこと多いこと。

個人的な確信を他人に押し付ける間違い

キリスト教福音派と呼ばれる人たち(実は私もかつてはそうでしたが)にその傾向が強いのではないかと思いますが、聖書の言葉は一言一句全て誤りなき真理の言葉であって、全ての人類が守るべき普遍的な教えであるという考え方です。しかし、結局のところ自分の都合の良い聖書箇所を引用し、それを他人にも押し付け、このブログの記事を書いた人が言っているように神の名を使って自分の願望や意見を正当化することになっていると私も思います。再三、私もこのブログで指摘させていただいておりますが、それが宗教の問題点だと私は思っています。

そう信じるのは自由ですが

本人は自己正当化という自覚はなく、これこそが全ての人が従うべき神様の御心だと信じているのだろうと思います。もちろん、他人の迷惑にならなければ、本人がそう信じる自由はあると思いますが、神の権威を借りて、自分の意見を他人に押し付けるのはいかがなものかと思います。ましてや意図的に聖書の言葉を持って来て、自己正当化しようとするなら、それは偽善以外の何物でもないと思います。

人々の躓きとなるキリスト教

自分の信念、自分の確信というものは他人に押し付けるものではなく、その信念の結果である人柄などを通して、慕われ、求められるものではないかと私は思います。そこに聖書の言葉を持って来て、権威づけたり、正当化したりしない方が良いと思います。クリスチャンと呼ばれる人たちが、そういうことをすればするほど、人々はキリスト教にも、聖書にも幻滅し、神様にも幻滅してしまうということになっているのではないでしょうか。

大切なことはキリスト教ではなく、神様を中心にして生きること

大切なことは宗教ではなく、良心に語り掛けられる、目には見えませんが、今も生きて働いている神様に対して、どう応答して生きるのかということだと私は思っています。それはキリスト教ではなく、私と神様との個人的な関係です。この神様を中心にして生きる生き方こそが人間本来の生き方であり、私たち日本人が太古の昔から大切にして来た日本人の心だと私は思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、私たち日本人の信仰のルーツでもあると私は思っています。私は聖書をキリスト教の教典として読んで欲しくありません。神様を中心にして生きるための参考として読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 26章21~23節

そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。

そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

なぜパウロは命を狙われているのか

ユダヤの王アグリッパの前でなされたパウロの弁明の続きです。自己中心を止めて、神様を中心にし、それにふさわしい生活をしなさいと宣べ伝えたために命を狙われているとパウロは弁明しました。

これは新しい教えでも、新しい宗教でもない

さらに、預言者たちやモーセとは旧約聖書の律法と預言書にあたる部分を指していると思いますが、キリストの十字架の死と復活は全てそこに書かれていることであり、それ以外の事は話していないとパウロは言っています。つまり、パウロの話はユダヤ人にとっては決して新しい教えでも、新しい宗教でもなく、ユダヤ教の教典である旧約聖書に書いてあることしか話していないということです。

ユダヤ教では今も受け入れていない

不思議なことですが、ユダヤ教の教典である旧約聖書に書いてあることであるにも関わらず、今日でもほとんどのユダヤ教徒はこのことを受け入れていないようです。メシヤ(キリスト)が十字架について死に、三日目に復活するということは、いくら旧約聖書にそう書いてあってもユダヤ教では受け入れられないということなのかもしれません。

大切なことは宗教ではない

しかし、大切なことはユダヤ教でも、キリスト教でもなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。誰でも自己中心の誘惑はあると思いますが、それは結局自分を滅ぼし、人を滅ぼし、社会を滅ぼしてしまうと思います。キリスト教を熱心にやったとしても、それが自己中心であるなら変わりはありません。自己中心を止めて、神様を中心にして正しく生きること。それが本当の幸いだと私は思います。

いかがでしたか

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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