自分の足りなさを認めて、それでも大丈夫という自信
誰でも自分は正しい、私は間違っていないと自分を正当化したいという思いはあると思いますが、そのような思いが不安の原因となってしまいます。なぜなら、完全な人は誰もいないからです。どうしたら自分の過ち、足りなさを認めて、それでも大丈夫という自信を持つことができるようになるのでしょうか。その答えは昨日お伝えした十字架による罪の赦しにあります。どうぞ今日これを必ずご自身のものにしてください。これが分かれば、張りぼてのような自信ではなく、本当の自信を持つことができるようになります。これが日本人の自信です。
自分は正しい人間ではないと認めることが出発点
このブログをお読みいただいている方にはもう何度か書いておりますように、聖書は決してキリスト教の教典でも、外国の宗教の本でもなく、歴史的には私たち日本人の信仰の土台となっているものです。(詳しくは過去のブログや「日本人の信仰と聖書について考える会」のホームページもご覧ください。) その聖書を見ると、私たち人間には罪があることが分かります。つまり、正しく生きたいという願いはあっても、正しく生きることができないのが人間だということです。だから、自分は正しい人間ではないということを認めて、そのことを受け入れることが出発点になります。
正しくないのは当たり前だった
人間は生まれつき自己中心で、人のことよりも自分のことを先にしたいものだし、誰に教えられなくても悪い思いが心の中に浮かんできます。そんな自分に直面すると、がっかりしてしまうというのはある程度分かりますが、でも驚くことではありません。それは当たり前だったということです。だって生まれつき罪ある者なのだから。これが私たちの出発点です。
十字架は罪の赦し
じゃあ、私たちは開き直るしかないのかというと、そうではありません。そこに救いがあります。今から約2千年前、神様が人となってこの地上に来てくださり、私たちの罪のために身代わりとなって十字架の上で罰を受けてくださったので、私たちの罪は赦されたということです。つまり、今も私たちは罪を持っているのですが、その罰は終わったので、神様は私たちを罪のない者として見てくださっているということです。これが私たちが罪ある自分を受け入れる根拠になります。
私も自分を受け入れて生きる
神様が私を受け入れてくださっているのですから、私も自分を受け入れて良いのです。正しい人間になったら自分を受け入れるのではなく、罪ある自分を今そのままで受け入れるのです。これが日本人の自信です。つまり、日本人は自分が何か立派な人間だから、正しい人間だから、何かが出来るから自分を受け入れて自信を持つのではなく、自分は決して正しい人間ではないけれども、ちっとも立派な者ではないけれども、それでも神様はこんな私をご自身の大きな十字架の犠牲を通して受け入れてくださっているので、私も自分を受け入れて、神様の喜びとなれるようにと頑張りますという自信です。
これが本当の謙遜てものでしょう
それは謙遜と言うことだと思います。これが本当の謙遜であって、決して「私なんかとてもとても」というように自分を低くすることではありません。それは自己卑下です。謙遜とは、このように自分の足りなさ、愚かさを認めて、受け入れて、それでも落ちない、自暴自棄にならない、神様を見上げて歩むという自信のことだと思います。
これが日本人の精神性の根幹ですね。素晴らしい!
これこそ日本人の精神性の根幹にあるものであり、それは人となった神様の十字架の犠牲によって与えられたものです。今、この日本人の自信をすべての日本人に自分のものにしていただきたいと思っています。日本人て素晴らしい!