【キリスト教・宗教】宗教か、生活か

雑巾がけをする子供

元クリスチャンで曹洞宗の僧侶であるドイツ人、ネルケ無方氏の著書「日本人に『宗教』は要らない」の中にこういう文章があります。

日常生活も修行である

私が安泰寺に入門したとき、疑問に思ったことがある。「私は、禅を極めるために日本に来た。掃除や料理をしに日本に来たわけではない。仏道の修行をしに来たのに、なぜ雑用をしなければいけないのか」

この疑問に対して、私の師匠はこう答えた。「掃除をしないで、料理をしないで、何が仏道修行か。履物をきれいに並べることも非常に大事なこと。脚下照顧(きゃっかしょうこ)、足元を見なさい。」

今を生きること

いまでは、私も師匠の言葉の意味がわかる。掃除や料理を差し引き、履物の並べ方も差し引き、雑用に見えていたそれらすべてを差し引いて、いったい何が残るのだろう。何も残らない。確かに、履物の並べ方でそんなに神経質にならなくてもいいかもしれない。線香の立て方が少しくらい歪んだっていい。理屈の上ではそうだ。しかし、いま生きているその瞬間をないがしろにして、ほかに何をするのか。坐禅以外の日常生活も修行なのだ。

宗教心とは

キリスト教には、このような考え方はない。キリスト教は、心の中を大切にする。究極的には、宗教心がすべてである。キリスト教徒は、茶の飲み方や肉の食べ方などは宗教と無関係だと思っている。食前、イエス・キリストに感謝するが、ナイフやフォークの持ち方が宗教的な行いだと思っている人はいないだろう。それはマナーであって、宗教ではないからだ。(本からの引用は以上です。)

西欧人の傾向

確かに西欧キリスト教は頭で考える傾向が強い宗教だと私も思います。しかし、それは西欧人の考え方がそうなのであって、本来、聖書もイエスもそのように教えた訳ではないと思います。新約聖書のヤコブの手紙にはこのように記されています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょうか。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(新約聖書ヤコブの手紙2章14~17節)

理屈と実践の相互関係

頭の理解も必要だと思いますが、実践の中で感じることはもっと大切なことではないかと私も思います。そういう点では日本人の方が西欧キリスト教徒より聖書の言っている内容をバランス良く受け止めることができるのではないかと思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の実践の記録だと思います。そして、それは日本人の生活に深い関係があると思われます。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみていただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 13章1~9節

その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」

聞く耳を持つこと

とても身近なたとえであり、群衆はすぐに想像することができる内容であったと思います。確かに全ての種が実を結ぶのではなく、あるものが百倍、三十倍と実を結ぶのだと思います。それは大ぜいの群衆がイエスの回りに集まっていて、その話を聞いてはいましたが、全ての人が実を結ぶのではないということでしょう。聞く耳を持たなければならないと思います。

それぞれの聞き方

良心は全ての人に等しく与えられていると思います。そして、神様は全ての人に等しく語り掛けていると思います。どの種も皆、実を結ぶ可能性を持っていると思います。しかし、実を結ぶ生き方になるかどうかは、それぞれの聞き方にかかっているということではないでしょうか。

宗教ではなく、神様を中心にして生きる

良心に語り掛けられる神様の声なき声に従って生きるのか、それとも自己中心のまま神様の声を無視して生きるのか。それによって人生は大きく変わってしまうと思います。それは何かの宗教を信仰するかどうかということではないと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで、「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しすることになりました。入場無料、予約不要です。ぜひたくさんの皆さんにお出でいただきたいと思います。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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