学校の進路指導
私は以前に高校の教諭をしていましたので、生徒の進路指導もしましたが、その内容は適正検査などをして、生徒が各自どのような適正があるのかを知り、また世の中にはどんな職業があるのかを勉強し、最終的には学校に寄せられる求人の中からそれぞれ自分にあった職場を選ぶということだったように思います。
仕事をするとはどういうことなのか
しかし、こうして神様を中心とした生き方を考えるようになって思うことは、なぜ仕事をするのか、仕事をするとはどういうことなのかということをもっと考えるべきだったのではないかと感じます。神様を中心に職業というものを考えるなら、それは単に収入を得るとか、自己実現ではなく、社会貢献という視点を持つことが大切ではないかと思います。つまり社会の良き形成者として、自分には何ができるのかという視点は大切ではないかと思います。
神様を中心とした職業観
自分の適性ややりがいという視点も大切だと思いますが、それだけだと、どうしても自己中心的な職業観になってしまうような気がします。何のために勉強するのか。その目的もまた自己実現ではなく、社会の良き形成者となって、社会貢献できる者となるためであり、その結果として社会人として自分の存在意義にも手応えを感じるようになる。生きがいを感じる。人間はそのように作られているのではないでしょうか。
ひとつのからだ、それぞれは器官
パウロという人が書いた手紙が新約聖書の中には収められていますが、このような言葉があります。「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。」
社会の形成者として
パウロはからだの中には多くの器官があって、ひとつのからだを形成しているように、私たちもそれぞれの働きによって全体を形成していると書いています。神様を中心にする一人一人の働きによって、私たちはひとつのからだを形成している。そのような職業観が大切ではないでしょうか。子供たちにこうして私たちは「社会人」となるということを教えることは大切な教育ではないかと思います。
職業は収入とは限らない
このように考えれば、必ずしも収入を得ることだけが職業ではないということも思います。家庭の主婦もまた重要な働きだと思います。大切なことは、神様を中心にして、自分ができる貢献をすること。そのような職業観を子供たちが持つようになることが大切ではないかと私は思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は決して宗教の教典ではありません。それは神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生活にも深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を参考にしてみてください。
新約聖書 マタイの福音書 13章18~23節
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国(みくに)のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
イエスが弟子たちにした「種蒔きのたとえ」の説明
「御国のことば」とは、神様を中心とした幸いな生き方のことだと思います。「悟らない」とは、難しい内容を理解するということではなく、受け入れないという意味だと思います。聞いても、そのまま忘れてしまう。気にも留めないということでしょう。それでは、何の益もない。もちろん、実を結ぶこともないでしょう。
自分の根を持つ
「みことば」とは、神様を中心とした幸いな生き方のことなのか、それとも良心に語り掛けられる、今も生きて働いている神様の声なき声のことなのでしょうか。いずれにしても、神様を中心にすれば、途端に何もかもバラ色になる、とは限らない。むしろ、困難が伴うこともあるかもしれません。自分の根がないと、それを乗り越えて、本当の幸い、「実」を結ぶには至らないということでしょう。しっかりと自分の根を持つこと。つまり、ただの受け売りで、その話は知っているということではなく、自分の体験を通して知っているという「自分の根」を持つことが大切だと思います。
神様を中心にする人
3つ目は「誘惑」でしょう。私たちは再び自己中心になってしまうこともあるかもしれません。気が付いたらまた、神様を中心にして進んだら良いのではないでしょうか。「みことばを聞いてそれを悟る人」とは、良心に語られる神様の声を中心にして、困難を乗り越え、実を結ぶまでそこから離れない人ということでしょう。これこそが神様を中心とした幸いな生き方だと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
■昨晩はありがとうございました■
昨晩はタピ大(市民講座)でのお話「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」を無事に終了することができました。30人くらいの方が参加され、熱心に聞いてくださり、終わった後も質問に来られる方が続きました。このテーマの関心の高さを感じました。今回は歴史の概観でしたので、次回はもう少し掘り下げた内容で行いたいと思います。参加してくださいました皆様、そしてお祈りくださった皆様、本当にありがとうございました。