【子供の教育】良い教育と悪い教育

夕暮れの丘に立つ親子

「子供にとっての良い教育・悪い教育」というサイトからご紹介いたします。サイトでは「悪い教育」から紹介されていますが、私は「良い教育」から紹介したいと思います。

ポジティブな思考で接する

「ありのままを」「気前よく」「具体的に」「タイミングよく」「プロセスも」愛情を持ってほめ続ける。「この子は伸びる」と確信を持って接する。方法は1つではない。親の期待を押しつけず、自分で将来をつかむ力をつけさせる。親自身が人生を楽しむ。(神様からお預かりしている子供として育てると良いのではないかと思います。)

褒めると叱るのバランスが大切

「褒める=甘やかし」にならないように、「褒める」と「叱る」のバランスをとりましょう。

(褒めるところは褒めることによって、子供は何が正しいことなのかを理解することができると思います。しかし、正しくないことがあるなら、それは正しくないと指摘することが大切だと思います。もちろん正しくないと知っていながら、あえてそれをする場合は「叱る」必要もあると思いますが、感情的に怒らないように気をつけましょう。それは親の感情であって、指導ではないと思います。もちろん、親も感情を持つ人間なので、時には怒ってしまうのは仕方がないと思います。)

子供を一人の人間として尊重する

(子供は知識と経験において親の教育を必要とする者だと思います。しかし、人間としての尊厳においては決して大人に劣る者ではないと思います。どんなに小さな赤ちゃんでも「神様のかたち」を持つ「人間」であることを忘れないようにすることが大切ではないでしょうか。)

子供に悪い影響を与えてしまう教育

「夫婦の不仲」「夫婦喧嘩」「叱責」は、そのまま子供にとっては恐怖体験となる。(気をつけましょう。特に子供の前では。)

「過度な叱責」一方的であったり、理不尽であったり、過度な叱責は子供の教育に良くありません。電車の中など公共の場ではよく見かける光景です。(指導は必要だと思いますが、丁寧な言葉で指導できると良いと思います。)

「過度な期待」子供のためではなく、親の満足を満たすための期待を押しつけるのは、子供の将来に悪影響を及ぼす危険があります。(親が子供に期待を持つこと自体は健全だと思いますが、それは神様を中心とした期待でしょうか。それとも親の自己中心なのでしょうか。そこが問題だと私は思います。)

「子供の存在を否定する」「短所ばかりを指摘する」「兄弟を比較する」(親が感情的になっていると、ついそんな言葉が口をついて出て来てしまうこともあるかもしれません。親自身がストレスをためこまず、神様を中心にして、健全な人生を生きていることが大切ではないでしょうか。参考にしてみてください。)(サイトからの引用は以上です。( )内は私のコメントです。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は戒律が記された宗教の教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史であり記録です。それは私たち日本人の生活に深く関係している書物だと思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知り、神様を中心として生きるために聖書を参考にしてみてください。大切なことは宗教ではなく、神様を中心にすることだと思います。

新約聖書 マタイの福音書 14章13~21節

イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。

夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」

しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」

すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。

人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

常識では説明できないこと

いったい何が起こっているのでしょうか。とても常識では説明できません。男だけで五千人とありますから、全体では一万人を超えていたかもしれません。たった五つのパンと二匹の魚でみんな満腹して余ったという出来事です。イエスを通して神様の超自然的な力が働き、このような出来事が起こったということではないでしょうか。

生きて働く神様の力

神様は決して頭の中の観念ではなく、私たちの現実生活に生きて働く力であると思います。私自身はこれほどの超自然的な出来事を経験したことはありませんが、今仕事が与えられていること、今日まで生活が守られたこと、必要な助けがいつも与えられたこと、良い人たちに囲まれていること、挙げれば切りがありませんが、その背後には見えない神様の力が働いていると思っていますし、これからも守られるという安心感を持っています。神様を中心にして生きる平安だと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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