【人生の目的】「生きがい」探しのヒント

クローバーと少女

今日は「世の中の人はいったい何を人生の楽しみに生きているのか!?【生きがい】について」というサイトから「【生きがい】探しのヒント」という記事をご紹介し、私のコメントを書いてみたいと思います。

「生きがい」探しのヒント

「生きがい」は、なくても生きてはいけますが、それを見つけられた人は幸せです。

  • あなたは、毎日小さな幸せを感じて暮らそうとしていますか?幸せを感じられるように努力し、気分よく生活することを心がけましょう。
  • あなたは、自分で自分を幸せにしようとしていますか?幸せになれる計画をしましょう。たとえば、旅行、映画や遊園地へ行く、祭りなどの地域や学校の行事に参加する、ボランティアをする、おいしいものを食べに行く等々。
  • あなたは、失敗などをすぐに考えてしまい、やりたいことをほとんどやっていないのではありませんか?幸せを自ら感じるためには、ある程度のリスクはつきものです。だからこそ、うまくいった時に幸せを感じることができるのです。夢や大きな目標を達成するために、当面は小さな目標を作りましょう。
  • あなたは、ただなんとなく、日常生活に追われて生きていませんか?たまには、自分の幸せや生き方について考え直してみてください。「幸せな人生」を目指し、それができる自分を育てるように努力しましょう。
  • 「何かのために生きたい」と思える「何か」があればいいのです。夢、目標達成、お金、仕事、欲しい物を手に入れる。愛、家族、誰かの役に立つ、社会貢献する
    いろいろな経験をする、生活を楽しむ、等。そのために「生きたい」と心から思えれば、何でもいいと思います。たくさんあってもいいし、時とともに変わってもいいと思います。(サイトからの引用は以上です。)
神様を中心にして生きる

ちょっとした幸せ、ちょっとした楽しみを積み重ねることも良いことだと私も思います。でも、それだけで終わる人生にいったい何の意味があるのかという深い問いには応えることができないでしょう。大きい小さいに関わらず、社会の益となり、人の助けとなる生き方。自己中心、自己満足ではなく、神様の自分に対する願いや思いに応える人生。そこにこそ決して無くならない深い満足があると私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生き方に深い関係があるようです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる幸いを知るために聖書をお読みいただければと思います。

新約聖書 マタイの福音書 14章34~15章11節

彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。

そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

そこで、イエスは彼に答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。

それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

食前に手を洗う

食事の前に手を洗うのは日本人としては当然だと思います。汚れた手で食べ物を食べても心は汚れないと思いますが、病気になる危険性はあると思います。しかし、ここでイエスが言っているのはそういうことではなく、ユダヤ教の宗教的な戒律のことを言っているのだと思います。

宗教ではなく神様

大切なことは宗教規定の解釈ということではなく、良心に語り掛けられる神様の声なき声に聞き従うことだと思います。宗教に熱心であっても、神様には不忠実であるということがあり得るということだと思います。いや、むしろ宗教に熱心であればあるほど、皮肉なことに神様には不忠実であるということが往々にしてあるということではないでしょうか。

本当の生きがい

大切なことは宗教ではなく、神様からの語り掛けを良心で聞いて、自己中心を退け、神様の声を中心にして生きることだと思います。それが「私の人生はこれで良い」という深い平安をもたらすのだと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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