【日本とイスラエル】川守田英二の研究

おかめひょっとこ
古代日本にユダヤ人は来たのか

今日も日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。

日本民謡とヘブル語

サンフランシスコで邦人キリスト教会の牧師をしていた川守田英二(1891~1960年)は、日本の民謡に着目した。川守田は、『日本ヘブル詩歌の研究』その他を著し、日本の民謡とくに囃子詞の多くはヘブル語であると主張した。

日本語としては意味が分からない言葉

日本に古来伝わる民謡の中には、日本人でもわからないような不可解な言葉が、数多く含まれている。たとえば佐渡おけさで、「アーリャ・サ」と言うのはなぜか。ソーラン節の「ヤーレン・ソーラン」とは何か。よさこい節の「ヨサー・コイ」とは何か。東北地方の民謡の「ナニャド・ヤラ」とは何の意味か。これらは、日本語としてみると、日本人でも何のことかわからない。しかし、彼はヘブル語として読むと、非常によく意味の通る言葉に読めると主張したのである。(中略)

非常に興味深い

問題は、民謡の発音というものはこの数千年間に変化しているはずで、今の発音が数千年前も全く同じだったかどうかわからない。だから、ユダヤ人が日本の民謡を聴いてすぐそれがヘブル語とわかるかというと、たいていはわからないのである。とはいえ、日本の民謡にヘブル語が多く含まれているという説は、非常に興味深いものではある。

「ヤ」「ヤー」は神様を表すヘブル語

また注目すべきことは、川守田が、日本の民謡の囃子詞に神の聖なる御名(ヤハウェ)が何度も登場するとしていることである。「南王国ユダのユダヤ人」と「北王国イスラエルの十部族」との違いの一つは、南王国のユダヤ人はバビロン捕囚(紀元前6世紀)後、神の聖なる御名(神聖四字YHWH)を「主(アドナイ)」(主権者の意味)という呼称に読み替え、実質的に神の御名を発音しなくなったことである。

神の名をみだりに唱えてはならない

これは人々が神の御名をみだりに唱えないためであった。神の御名はエルサレム神殿においてだけは発音されていたが、それも西暦70年の神殿崩壊後は発音されなくなった。しかし、イスラエルの十部族の間ではこのようなことはなく、神の御名の発音は人々の間で続けられた。

十部族は日本に来たのか

したがって、もし日本の民謡の中に神の聖なる御名がよく使われているという主張が真実であるならば、それはイスラエルの失われた十部族によるものと判断することが可能になる。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

これもまた古代日本にユダヤ人がやって来たことを示す一つの状況証拠かもしれません。私たち日本人の信仰、伝統、生活はユダヤ人の信仰、生活が起源ではないでしょうか。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律を記した教典ではなく、ユダヤ人の歴史の記録です。キリスト教の教典としてではなく、日本人の信仰の原点を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 21章18~22節

翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

たちまち枯れた

木や植物にも優しい声をかけていると良い実がなり、苦々しい言葉をかけていると枯れたり、腐ったりするという話を農業をやっている方から聞いたことがあります。しかし、ここではたちまち枯れたとあり、弟子たちもこれを見て驚いたと記されています。超自然的な出来事だと思います。

信仰

文字通りこのようなことがあったのかどうか、私には確かめる術はありませんが、イエスを通して神様の驚くべき力が働いていたとすれば、文字通りこのようなことがあったとしても不思議ではないと思います。しかし、大切なことは、「もし信仰を持ち、疑うことがなければ、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる」とイエスが教えたことでしょう。

どんな不可能も可能になる

それは文字通り山が動いて海に入るということではなく、どんな不可能も可能になるという意味ではないかと思います。「どうせ駄目」だとか、「やっても無駄だ」などと言っていないでしょうか。もし、そう思っているなら、そのようになってしまうでしょう。しかし、「できる」と信じて、「疑うこと」がなければ、必ずできると私は思います。「疑うことがない」とは、最後まで信じることだと思います。

信じて生きる

「信じて祈り求めるなら、何でも与えられます。」目には見えませんが、そういう神様はいると信じて生きる。それが日本人の生き方であり、イエスの教えた生き方だと私は思います。根拠のないポジティブ・シンキングを続けることは難しくても、神様を中心にすrならできる。それが私の経験から言えることです。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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