日本の神社と古代イスラエルの幕屋の構造の類似性については、このブログでもすでに指摘しました。日本ユダヤ教団のラビ(教師)として日本で10年過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」より、これまで触れなかった点について紹介します。
本殿に入るとき
一般の人々は神社の拝殿の前で祈る。拝殿の中には入ることことができない。そこは神官と特別に許された人々のみが入れる場所である。本殿は、一般の人々はもちろん入れないが、神官もそこに特別なとき入るのみである。これは古代イスラエルにおいても、同様であった。聖所(拝殿)には、祭司しか入ることができなかった。至聖所(本殿)は、大祭司が年に一度、大贖罪日に入ることができたのみである。
拝殿と本殿をつなぐ階段
日本の神社において、本殿は拝殿より一段高い所にある。そして、ふつう本殿と拝殿の間は階段で結ばれている。これは古代イスラエルの神殿でも同様であった。聖書学者によれば、ソロモンの神殿において至聖所は聖所より一段高い所にあり、その間には幅約2.7メートルの階段があった。
高い山の上
日本の神社はまた、たいてい山の上や、小高い丘の上に建てられる。古代イスラエルにおいても、高い山の上には「高き所」と呼ばれる礼拝所が設けられていた。イスラエルにおいても、山は神に近い場所と考えられたのである。
東の方角とは
日本の神社はほとんど、東向き、あるいは南向きに建てられている。東向きの場合は、鳥居が東側に、本殿が西側にある。これは東から日が昇るからである。古代イスラエルの幕屋や神殿は、東向きだった。これは神の栄光が東のほうから現れるという信仰に基づく。
偶像がない
古代メソポタミヤの宗教はみな偶像をつくった。エジプトもそうだった。仏教も、様々な仏や神の像をつくり、偶像をつくる。ヒンズー教や、ギリシャ、ローマの宗教などもそうである。カトリックのキリスト教にも偶像がある。しかし、ただユダヤ教と日本神道においては、古代から一貫して偶像がつくられなかった。これは両者の重要な特徴であり、強調されてよい類似性である。(本からの抜粋引用は以上です。)
聖書を読みましょう
実際に今回も籠神社を初め、いくつかの神社を訪れたが、崇める神様に違いはないとあらためて実感した。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、日本人の信仰に深い関係があります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マタイの福音書 27章45~56節
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
超自然的な出来事
イエスが十字架上で最期の息を引き取った時、神殿の幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、多くの聖徒たちのからだが生き返ったと書いてあります。文字通りこのような超自然的なことが起こったのか私には分かりませんが、あったのかもしれません。
多くの聖徒たち
ただ、多くの聖徒たちとは誰のことを言っているのか気になりました。普通のユダヤ人のことでしょうか。それとも、イエスの言葉を聞いて神様を中心にして生きるようになった人たちのことでしょうか。「多くの」とありますが、イエスの教えに従って、すでに死んだ人がそれほど多くいたとは思えません。そうすると、イエスの教えとは関係のない人々だったのかもしれません。そのような人々の上に神様の超自然的な力が働いたということなのかもしれません。
思いは神様に向けられていた
いずれにしても、イエスは最後の最後まで、その思いは神様に向けられていて、決して人に向かうことはありませんでした。ここに日本人の精神性のルーツがあるのではないでしょうか。あの人、この人ではなく、全ての出来事を神様を中心に捉え、神様を中心にして生きる。最終的にはそれがその人の生きざまではないでしょうか。
いかがでしたか
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