国際紛争の解決の可能性は日本にある
昨日、ラジオでグローバルジハードという言葉を聞きました。ネットで調べてみると、イスラム過激思想を全世界に呼びかけ、組織としてではなく、世界のあらゆる所で個人レベルのテロ行為を引き起こしていくことだとありましたが、このような問題に対して、特定の宗教的立場を持っていない日本こそが解決の可能性を握っているのではないかというようなことをニュース解説をしている方が言っていました。
日本人の信仰以外にない
確かにそれは対決、対立という構図では解決できない問題だと思います。このように泥沼化した国際紛争の解決は日本にとっても容易なことではないと思いますが、昨日のブログの最後に少し書きましたように、その解決は特定の宗教によらない、世界のすべての人は神様の民であるという信仰以外にはないように思います。今こそ私たち日本人がこの神様の視点を取り戻さなければならない。それは私たち自身が本当に悔いのない、これで良いと確信できる人生を送るためだけでなく、世界がそれを待っているということではないでしょうか。神様の視点から見るなら、そのように思えます。
自己主張と相互理解の関係
私たち人間はそれぞれ主義、主張を持つと思います。また持つべきだと思います。より良い答えを見つけるためにお互いに意見を交わすことも有益だと思います。しかし、ただ自らの正当性を主張し、相手の意見に耳を傾けないのであれば、そこには対立と対決しかないと思います。それは日本人の信仰ではないと私は思います。
同じ神様を見上げながら、それぞれの確信を持って生きる
同じ神様に生かされている私たちですが、その中でも人は皆、それぞれ自分の確信を持って生きることが大切だと思います。同時に自分とは違う確信も尊重することが大切だと思います。同じ神様に生かされているからと言って、皆同じ考えになる訳ではありません。生まれも育ちも、環境も、文化も、伝統も違う中で生きてくれば、それぞれが持つ確信が違うのは当然だと思います。また、私たち自身は神様ではないので、すべてのことを知ることができません。私たちが知っていることは一部のことに過ぎません。そんな自分の考えを絶対化することはできないと思います。あくまでも、これまでのところ私はこのように確信しているということしか言えないと思います。だから人の意見も大切です。自分とは違う人生を生きて来て、私の知らないことを知っているのですから、その人の意見にも耳を傾けるべきだと思います。共感できる部分もあれば、共感できない部分もあるでしょう。それで良いと思います。大切なことはこのようにして多くの自分とは違う人々とも出会い、それぞれの確信を深めながら私たちは生きて行くということだと思います。これが日本人の信仰だと思います。
神様に心を向ける。神様の願いを第一にする
どうぞすべてを造られた唯一の神様に心を向けてください。そして、自分の願いではなく、神様の願いを第一にして生きることに心を決めてください。それが自分を救い、世界を救うことになります。そのためには毎日、神様に祈り、聖書を読むことが有益だと思っています。どうぞ続けてください。継続こそ力だと思います。
今日も少し聖書から引用し、私が思ったことを書いてみたいと思います。どうぞ参考にしてみてください。ルカの福音書7章24~29節です。
ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう』と書かれているその人です。あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。
神様の視点を持って生きるということ
前々回も書きましたが、ヨハネという人物は、この人こそ来るべき神様ではないかと噂されるような著しい働きを当時した人でした。ヨハネ本人はそれを否定し、私はその方の備えをする者に過ぎないと言いましたが、ここで人となった神様であるイエスも、このヨハネは神様の備えをする人であり、何百年も前から預言されていた、神様から遣わされたその人であると言っています。そして、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれていると言っています。神の国、それは神様の視点で生きる人の国ということではないでしょうか。人間的に見れば、特に当時のユダヤ人にとっては、神様が遣わされた特別な預言者であるヨハネは確かに人間の中で最も優れた人と言って良いのだろうと思います。でも、神様の視点を持って生きるということは、それ以上のことだと教えているのではないかと思います。
続いて、30~35節
これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」
自分から神様へ中心を転換する
バプテスマというのは水の中に全身を沈める洗礼のことですが、当時、その人の教えを受け入れる、その人の弟子となることを示すユダヤ人の習慣儀礼でした。ところが、パリサイ人と呼ばれる宗教家や律法、つまり神様がユダヤ人に与えた命令の専門家たちはそれを拒否しました。言ってみれば、その態度は結論ありきで、全く聞く耳を持たない。このような態度では対立と対決しかもたらさないと思います。これは自分を神とする態度ではないでしょうか。神様の前にへりくだる心の転換が求められているんだと思います。ここに人類の救いがかかっていると思います。
求める者には必ず分かる
人となった神様であるイエスは群衆に問いかけました。「あなたがたは荒野に何を見に行ったんですか。まさか風に揺れる葦を見に行った訳ではありませんね。宮殿にいるぜいたくな暮らしをしている人を見に行った訳でもない。神様の心を知りたくて、本当のことを知りたくて、神様の預言者の話を聞きに行ったのでしょう。」 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ(ローマのためにユダヤ人から税金を集める、ユダヤ人からは軽蔑された人たち)、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたように、神様の私たちに対する願いは、それを求める者には必ず分かります。でも自分の願いに固執すると、それは分からないんだと思います。