日本とイスラエルに関連する事柄について、畠田秀生著「日本は聖書の国だった!」からご紹介いたします。
家老の特権は「諫言」である
江戸時代に鍋島藩という藩が佐賀にあった。家来に山本常朝というサムライがいた。彼は武士道『葉隠』を書いた。家老の特権は諫言(かんげん)であると言い切る。主君に「御異見」して主君の考えが糺(ただ)され、政道に反映されることは、家老の仕事冥利に尽きるのであるが、自分の名利を度外視して命を捨てる覚悟が奉公の醍醐味だと言う。
不名誉覚悟の奉公
戦場での戦いで討死にしても誉れあり、敵を討てば子々孫々の誉れである。しかし、諫言は主君のいやがること、異見を言うのであるから、手討ちにあうか蟄居(ちっきょ)、引退か窓際に追いやられるか、妻子まで路頭に迷わせる覚悟のうえでなければならない。切腹した家老が忠臣の名をいただくというケースもあるが、大方にして主君の面目をつぶしたと大不忠の名を着せられたのである。
武士道の心
そのような環境のもとで、江戸時代の武家家訓に「諫言」が頼もしき家来の働きとして理解されているとは驚き以外何ものでもない。命を捨てて奉公するその心意気が、常朝の武士道であり、それが日本人の中に培われていた。
問われる主君の分別
十が九まであぶなき勝負、なのであるが無効、無償であっても主君に「御用が立つ」確信をもって家老が、その職をはたした心意気が、また驚きである。主君がだいたい次のようであったと『葉隠』は言っている。「御代々の殿様、悪人これなく、鈍智これなく」(夜陰の閑談)。だから一命を捨てて諫言できるのだと楽観している。
武士道の復活こそ
その気概が今の世の一流企業の「家老」たちに見られたらと嘆く日本男児は決して少なくはない。武士道のよみがえることによって日本の日本たる姿がよみがえり、背筋が真っすぐになる。
そのルーツは聖書
日本人の背骨がまっすぐに伸びていた秘訣は、武士道そのものであった。そのルーツの解き明かしは旧約聖書に貫かれているイスラエルの精神にある。これは今まで私たちに押しつけられてきた西洋文化の着物を着たキリスト教ではない。
エゼキエルが見た幻
旧約聖書の預言者のエゼキエルという人が幻を見た。谷間に横たわる枯れた骨だった。彼がその骨に神のことばを語った。そうすると肉がつき筋がつきもとの体になってよみがえり、それが大群衆になった。この幻を見る第二、第三のエゼキエルが、今の日本を救う東の空に輝く希望の星なのだ。
第三のエゼキエルを待つ日本
日本にいた第二のエゼキエル、それが新渡戸稲造、内村鑑三であった。武士道復活は、とりもなおさず私たち一人一人にかかっているのだが、これからの日本の中のイスラエル性に着目しながら、サムシンググレイトの存在と日本の未来展望を見るひとりとなるなら不死鳥の羽ばたく音を立てることになる。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、信仰、国民性、そして武士道にも大きな影響を与えていると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 16章1~13節
イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、「麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
小事に忠実な人は、大事にも忠実である
金持とは誰を指しているのか。家令とは誰を指しているのか。良く分かりません。特に誰かを指して言っているのではないのかもしれません。この譬のポイントは小事に忠実でなければ、大事に忠実であるということはないということでしょう。小事とは何を指し、大事とは何を指しているのでしょうか。
日常生活の中で神に仕える
神を中心にして生きることは「大事」ではないでしょうか。しかし、それは決して日常とは別の次元にあるものではなく、今、置かれている状況の中で神を見上げ、神の前に誠実に忠実に生きることでしょう。しかし、そのような日常の「小事」を神の前に忠実に行う事こそが神に仕えることだということを言っているのではないでしょうか。
律法学者、パリサイ人と弟子たち
取税人や罪人を見下げるパリサイ人や律法学者といったユダヤ教の宗教指導者たちは、自分たちこそ大事を行う者だと考えていたのかもしれません。それに対して、弟子たちに、日々の小事に忠実に仕える中に神を見出すようにとイエスは教えたのではないでしょうか。
ただ神に仕える
「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とイエスは締めくくりました。日々の小事において神に仕えるとは、富に仕えることではなく、神に仕えることであること、神から目を離さないようにすることが大切だということではないでしょうか。
いかがでしたか
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本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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