神の導きなのでしょうか。かつて私が埼玉で牧師をしていた時の教会員の方が故郷の宮古島に帰ることになり、帰る前にお会いして、私の著書をお渡しし、「日本人の信仰と聖書について考える会」のことをお話ししました。何と宮古島に帰って、日曜日に行った教会の牧師が「沖縄に見るユダヤ文化」という著書を出されているというのです。
神の導き
沖縄には今も聖書に酷似した風習があるということは聞いており、いくつか著書も読んでいましたが、たまたま行った教会の牧師がそのことを研究されている方だと知って、大変驚き、これは確かに神の導きだと感じました。来年の夏には沖縄を訪問し、聖書と関連のある場所を実際に訪れ、この牧師にもお会いしたいと今から計画しています。そのレポートも楽しみにしていてください。
著書からご紹介します
この牧師が書かれた著書を送っていただきましたので、その中からいくつかご紹介させていただきます。瑞慶山道弘(ずけやま・みちひろ)著「命どぅ宝」(球陽出版)です。
聖書的平和思想
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(旧約聖書イザヤ書2章4節)
国連本部には、この聖書の言葉が刻まれている。つまり国連の理念は、この聖書が語る平和のビジョンと言える。
「平和」はヘブル語で「シャローム」というが、・・・この「シャローム」が実現している世界は、抑止力とか、けん制、駆け引きといった外交ではなく、共存共栄のための協力関係となる。
アメリカが平和を語る時は、実はこの「シャローム」とは程遠いものである。それはひとことで言えば、アメリカに都合のよい平和である。・・・中国も同様である。・・・単に、一国のナショナリズムの平和主義でしかない。・・・「アメリカの平和」と「中国の平和」の両立は成り立たない。・・・皮肉なことに、「平和」という大義名分のために戦争をしているのである。
ところが、この聖書の平和思想は、沖縄の平和観と非常に良く合致するのである。・・・沖縄の民は歴史的にも争いを好まず、「武器をもたず平和愛好の民」として知られている。・・・この沖縄の平和観は、沖縄戦を経験することによって、よりいっそう強められた。
キリスト教国である欧米諸国が、堅持できなかった聖書の平和思想を、この沖縄からなら大胆に力強く発信できる。この時代に、神が沖縄に与えた使命ではないだろうか。(本からの抜粋引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄のみならず、日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。本当の意味で聖書の精神を理解する精神的土壌を持っているのは日本人だと思います。
新約聖書 ヨハネによる福音書 9章13~23節
人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。
彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、尋ねて言った、「これが、生まれつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生まれつき盲人であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちは既に決めていたからである。彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
安息日を守っていない
生まれつきの盲人の目が見えるようになったということは、否定することのできない事実として記されています。イエスを通して、そのような超自然的なことが起っていたということであり、神の特別な力がイエスを通して働いていたことを示す事実だと思います。しかし、安息日を守っていないから、イエスは神からの人ではないというのがユダヤ教の指導者たちの考え方だったようです。宗教にとらわれてしまうと、神を見失ってしまうことがあるということでしょう。気を付けなければなりません。宗教の教えではなく、神に目を留めることが大切です。
いかがでしたか
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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