昨晩(と言っても、12月19日ですが)、タピ大に行って来ました。講師ではなく、生徒として講演を聞きに行ったのですが、面白そうな内容の講座には時々行っています。昨晩のテーマは「種まきが今を変える!仏陀に学ぶ人生観」でした。
因果の道理
良い種(言葉、行い、思い)をまけば、必ず良い結果を得る。結果には必ず原因があり、原因のない結果はない。これを「因果の道理」と言って、釈迦はこれこそ大宇宙の真理だと教えたと昨晩の講師の先生はおっしゃっていました。
良い種をまきましょう
大切なことは知っているだけではなく、実行すること。だから良い種をまきましょうと言っていました。私も大賛成です。幸せな人生を送りたいと思うのなら、悪を退けて、善を行うことが大切だと私も思います。釈迦も同じことを教えているんだなと思って帰ってきました。
不条理をどう理解するか
でも、一晩たって私は思いました。もちろん、善を行うことを勧めることには大賛成ですし、反対の理由は何もありません。でも、善を行う者は必ず報われる。それは大宇宙の真理だと釈迦は教えたということですが、本当に釈迦は「因果の道理」を信じていたのでしょうか。少し考えれば、この世界はそうではないという現実にぶつかるのではないでしょうか。
旧約聖書ヨブ記のテーマ
善は必ず報われる。そう信じたい気持ちはよく分かります。そうだったらいいなあという気持ちは私にもあります。旧約聖書の最も古い文書と言われる「ヨブ記」のテーマはまさにそういうことではないでしょうか。ヨブは正しい人でした。しかし、そのヨブに不幸が次々と襲いかかります。ヨブも友人たちも善は必ず報われると主張します。しかし、そのような人間の思いを越えた世界が存在することをヨブ記は教えているように思います。イスラエル人は太古の昔から、聖書の最も古い文書で、このテーマを取り扱ったのではないでしょうか。
それでも神の前に正しく生きる
現実の世界を見るなら、必ずしも因果の道理は真理とは言えない。でも、人間の世界を超えた神に思いを向けるなら、必ず報いてくださる神の存在を知ることができると思います。たとえこの世界で報われることがなかったとしても、神の前に正しく生きることは意味のあること、価値のあること、神は必ず報いてくださると思います。釈迦は本当に「因果の道理」を信じていたのでしょうか。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書にも「人は蒔いたものを刈り取る」という言葉があります。大宇宙の真理とは言えないかもしれませんが、良い種をまけば、良い結果を刈り取ることは一面の真理だと私も思います。どの宗教が正しいのかということではなく、私は釈迦の教えも学んでみたいと思います。そして、聖書からも多くのことを学ぶことができ、それは日本人の心に通じるものだと思います。
新約聖書 ヨハネによる福音書 11章45~57節
マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。
そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。
彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。
このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。
彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた。
さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいていたので、多くの人々は身をきよめるために、祭の前に、地方からエルサレムへ上った。人々はイエスを捜し求め、宮の庭に立って互に言った、「あなたがたはどう思うか。イエスはこの祭にこないのだろうか」。
祭司長たちとパリサイ人たちとは、イエスを捕えようとして、そのいどころを知っている者があれば申し出よ、という指令を出していた。
イエスを信じた
このマリヤはイエスの母マリヤではなく、ラザロの兄弟のマリヤです。ユダヤ人の間ではマリヤという名前はよくある名前だったのかもしれません。イエスは死んだラザロを生き返らせました。それでイエスを信じた人も多くいたのでしょう。彼らは人はイエスの弟子となった。イエスを先生として受け入れ、そのような人々が増えたということでしょう。キリスト教徒になったということではありません。イエスを信じるとは、必ずしもキリスト教徒になるということと同じではないと思います。
祭司長たちとパリサイ人たち
ユダヤ教のおもだった人たちはイエスを中心とする自分たちとは違うグループが台頭してきたことに不安を感じたのではないでしょうか。自分たちの立場が危うくなると感じたのではないでしょうか。
大祭司カヤパ
大祭司カヤパは自分たちの保身のために、イエスを殺そうと提案しました。彼はそういう意味で提案しましたが、それは神の預言で、イエスがユダヤ人のためだけでなく、散在している神の子を一つに集めるために死ぬことを言っていると聖書には記されています。つまり、それはイエスの十字架の死のことを指していると考えられます。散在している神の子とは、今もまだ失われたままになっているイスラエル十部族をも含むと考えるなら、まだこれから実現する預言と考えることもできるのかもしれません。その中には今も日本人の中に残されているイスラエル民族もいるかもしれません。
エフライム
イエスはエフライムという町に身を潜めたとあります。それは北イスラエル十部族のうちの一つです。まさかイエスがそこにいるとはユダヤ教のおもだった人々は考えなかったのだと思います。
いかがでしたか
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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