キリスト教という宗教についてどう考えるのか
大切なことは神様を中心とした生活をすることであって、クリスチャンになることではないとお伝えしています。そのために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。それでは、キリスト教という宗教についてはどう考えたら良いのか。私自身かつて9年間キリスト教の牧師をしていましたが、今はキリスト教についてどう考えているのか。皆さんがキリスト教という宗教とは関係なく、一人の人間として、神様を中心として生きるための参考になればという思いで書いてみたいと思います。
それはキリスト教の教えなのか
私たち人間は天地万物の造り主である唯一の神様によって意義と目的をもって造られた存在です。この神様を中心とした生活をする時に、私たちが抱える全ての問題、「罪」の問題も、「死」の問題も、どんな問題も解決します。これが「救い」ですね。聖書には「神の国の福音」とも書かれています。そのために神様が人となってこの地上に来てくださり、十字架について死に、3日目によみがえられた。それがナザレ出身のイエスという人物です。これはキリスト教という宗教の教えだと私は思い込んでいました。それで私は30歳の時に、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
良い木はみな良い実を結ぶ
私がキリスト教という宗教に疑いを持ち始めたのは、3、4年くらい前からだと思います。キリスト教国と言われる国の人たちが原爆という大変非人道的な武器を使用し、その使用を正当化しているということは一つのきっかけだったと思います。本当に神様を中心にして生きようという人たちがこんなことを出来るのだろうか。そして、世界の歴史に目を向ければ、キリスト教国と言われる人々による世界侵略の歴史です。キリスト教って本当に正しい宗教なのだろうか。聖書には人となった神様であるイエスが「実によって見分けることができる。良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結ぶ。」と教えた言葉がありますが、これは決して良い木ではないと思うようになりました。
日本人の方が良い木ではないか
むしろクリスチャンではない日本人の方が良い実を結んでいる人が多いのではないかと思うようになりました。そのような視点から聖書を読んでみると、人となった神様であるイエスは決してクリスチャンになるようにとは教えていないし、何かの宗教団体のメンバーになるようにとも教えていない。イエスが教えたのは「神の国とその福音」。つまり、神様を中心とした生活をすることであり、そこに救いがあるということです。私自身その喜びを体験してきました。このテーマの続きはまた来週書きたいと思います。それでは、今日も聖書の続きを少し読んで、参考までに私が考えたことを書きたいと思います。
新約聖書 ルカの福音書11章5~13節
「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』」
祈り求めることの重要性
弟子のひとりに祈りを教えて下さいと求められて、イエスは「祈るときには、こう言いなさい。」と教えた箇所を昨日は読みました。いかがでしょうか、その言葉で祈ってみましたでしょうか。それに続いてイエスが言ったのが今日の箇所です。求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうすれば、与えられます。見つかります。開かれます。そして、もう一度同じことを繰り返して強調しています。求めれば必ず与えられるということの確実性を強調していると感じます。まず、言えることは求めないで、与えられるのを待つのではなく、求めることが大切だと思いました。お祈りのことですよ。
聖霊が与えられる
必ず良い物が与えられると教えていると思います。特に最後の言葉ですが、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言っています。必ず聖霊が与えられるという意味だと思います。「聖霊」とは神様の霊です。私に確信を与え、私を自己中心から解放し、神様の思いを悟らせるのは神様の霊だと私は思っています。神様の霊がなければ、結局は私の確信も自分勝手な確信に過ぎないと思います。私の内に神様の霊が宿り、私をいつも導いてくださっていると思います。それは洗礼を受けたからではありません。クリスチャンになったからではありません。キリスト教のメンバーになったからではありません。求める者に必ず聖霊が与えられるとイエスは言われました。「天の父なる神様。どうぞ聖霊をお与えください。」と求めれば、必ず与えられるということだと思います。