日曜日のテーマは「人生の目的」です
私たちがこの世に生命を受けたのは偶然ではなく目的があるからです。私なんか生まれて来る必要はなかったと思っても、神様には目的があります。また、たとえばパソコンが自問自答したとして、自分の存在目的はこれだと思ったとしても、所詮それは自己満足でしかありません。人生の目的は私たち人間を造った神様を中心にしなければ分かりません。「神様。あなたは何の目的で私をこの世に生まれさせたのでしょうか。」と祈り求めることが大切だと思います。
急ぎで重要な仕事
私たちは大抵やらなければならない仕事を抱えています。それらを分類してみると、期日のある急ぎでかつ重要な仕事。期日はあるけどそれほど重要ではない仕事。期日はないけど重要な仕事。期日もないし重要でもない仕事。このように分けることができると思います。重要とは何かということを考えてみる必要もあります。それをやらなければ生活できない。生きていけない。生きている意味がない。それは重要ですね。急ぎで重要な仕事は優先順位一番になると思います。
重要だけど急ぎでない事
急ぎでもないし、重要でもない仕事。これはやってもやらなくてもいいような仕事ですね。後回しで構いません。問題は残った2つの優先順位です。いかがでしょうか。急ぎだけど、それほど重要でない仕事が、重要だけど急がない仕事をいつも押しのけていないでしょうか。たとえば、人生の目的について。これは差し迫った期日はありませんが、とても重要なことだと思います。急ぎの仕事をこなすだけの人生は虚しく、後で後悔することになると思います。良く考えなければいけないことは、重要なことのためにちゃんと時間を取っているのかということではないでしょうか。
重要な事のために時間を割く
差し迫った期日はないけど、重要な事柄のためには意識して時間を割く必要があります。どうぞ毎日、時間を決めて神様に祈り、聖書を読むことを日課にしてください。この世の生活を捨てて、山にこもって修行するという人もいるかもしれませんが、一日10分、20分で良いと思います。またはこのブログを読んで、神様に祈る時間を取るのも良いかもしれません。人生の目的、人生の喜び、悔いのない人生、本当の幸せは神様を中心とした生活にあると私は実感しています。
私のこれまでとこれから
具体的に何をするのかということは人によってそれぞれだと思います。私は自分の人生を神様を中心に、これまでどのように導かれて来たのか。また、これからどのように考えているのか。次回はそのことを書いてみたいと思います。どうぞ参考にしてみてください。それでは今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみたいと思います。
新約聖書 ルカの福音書11章45~54節
「すると、ある律法の専門家が、答えて言った。『先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。』 しかし、イエスは言われた。『おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました。したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』 わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。』 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」
律法の専門家への言葉
この前の個所で、イエスはあるパリサイ人に対して、あなたは外面的な宗教上の戒律は厳格に守り指導するが、その心は神様を中心にしてはいないと指摘しました。それに対する不満を表明したある律法の専門家に対して、イエスは「おまえたちもわざわいだ」と言われました。律法、つまり旧約聖書の専門家に対する言葉ですので、私たちには専門的で分かりずらい内容もありますが、簡単に言えば、旧約聖書の時代に、神様を中心としないイスラエルの人々に対して、神様は何度も預言者を遣わし、神様を中心とした生活をするようにと警告しましたが、人々は聞き従いませんでした。それどころか神様から遣わされた預言者たちを迫害したり、殺したりしたのです。
聖書は誰もが自由に読むことができるものです
本来、律法の専門家なのですから、神様を中心とした生活をするようにと人々に語らなければならないはずなのに、むしろ聖書解釈の権威を自分たちのものとし、自分が神様を中心とした生活をしないだけでなく、人々を神様から遠ざけるようなことをしているとイエスは指摘したんだと思います。聖書は権威ある先生の解釈でなければ読めないというものではありません。誰でも普通に読むことができるものです。そして、神様を中心とした生活をして、私の人生はこれで良いという喜びを持って生きること。それはキリスト教だけの専売特許ではありません。宗教とは関係なく、全ての人に差し出されている神様からの良い知らせです。どうぞ安心して、全てを造られた唯一の真の神様に心を向けて祈り、神様を中心とした生活をし、その喜びをご自分のものとして実感してください。