人生の目的は神様にある
日曜日のテーマは「人生の目的」です。人生の目的は自分で決めるのではなく、神様を中心に求めることが大切だと思います。人生なんて所詮は自己満足だと考える人もいるかもしれませんが、やがてこれで良かったのだろうかと考えることになるのではないでしょうか。
私は何のために生まれて来たのでしょうか
人間の幸せは単なる自己満足にはないと私は思います。私の存在意義は、私に命を与えて、この世界に送り出してくださった神様にあると私は思います。そこに私たちの人生の本当の満足、喜び、幸せがあると思います。私は何のために生まれて来たのでしょうか。これまで私自身はどのように考えて来たのか書いてみますので、皆様の参考にしてみてください。
この世界にはどんな意味があるのでしょうか
人生の目的について、私は20歳くらいになって初めて考えるようになりました。この世界には何か意味があるだろうと思い、文学にその答えを求めました。ちなみに、それまでの私は文学どころか、本などあまり読んだこともない、人生は楽しければそれでいいじゃないかというような生き方をして来ました。2年間くらで500冊くらいは読んだと思いますが、そこに答えを見つけることはできませんでした。
再び人生の目的を求める
一度は、人生は自己満足だと心を決めた私でしたが、それから8年経って、再び人生の目的を探し始めていました。もともと宗教は自ら考えることを放棄して、与えられる答えを鵜呑みにするものだと思っていたので、好きではありませんでしたが、この時は禅とか、仏教とか、聖書についての本などを読んでみました。でも、いくら頭で考えても分かりませんでした。そんな私に神様のこと、イエスのことを伝えてくれる人がいました。初めて、人間が考えた人生の目的ではなく、神様が目的をもって私を造ったという話を聞きました。反論はありませんでしたが、それを受け入れるというのはまた別の話でした。
自分中心に考えているのであれば、神様中心にはなっていない
それでは、「神様」と祈ってもらえませんかと言われました。不思議なことですが、「神様」と声に出して祈ることに抵抗を感じました。でも、逃げる訳にもいかないので、私は覚悟を決めて祈りました。それが私の人生に大転換をもたらしたのです。今、分かることは、神様についての説明をいくら聞いても、それを自分の頭で考えて、理解しようとしている限り、それは神様ではなく自分が中心になっていたんだと思います。そんな私にとって、「神様」と祈ることは、理屈ではなく、神様を中心にすることになったんだと思います。それで初めは抵抗を感じたのだろうと思います。
神様の思いや願いを中心にする
神様を中心にするというのは、神様の思いや願いを中心にすることを意味していると思います。神様は参考ではなく、中心にすべき方だと思います。それが本来の人間の姿だと思いますし、そこに本当の人生の喜びがあると実感しています。皆様もどうぞ自分の頭で神様を理解して参考にするのではなく、神様の思いや願いを中心とした人生を歩んでみてください。それは何かの宗教をやることを意味してはいません。その後、私はどうなったのか。また来週続きを書きたいと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、皆様が神様を中心とした生活をするための参考にしてみてください。
新約聖書 ルカの福音書12章49~53節
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
「平和」ではなく、「分裂」とはどういうことなのか
パリサイ人、律法学者たちとの対立が明らかになり、十字架につく時が近づく中で、来るべき対立に向けての心構えを弟子たちに語られたイエスの言葉の続きです。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」「地に平和を与えるため」ではなく、「分裂です。」 これらのイエスの言葉を、家族や日本社会の反対があってもクリスチャンとして生活すべきだという意味で理解すべきではないと私は思います。これはパリサイ人、律法学者、宗教家との対立に向けて語られた言葉であることを踏まえなければならないと私は思います。
私の人生の目的は神様を中心とした生活の素晴らしさを伝えること
当時のパリサイ人、律法学者、宗教家の問題とは何だったのでしょうか。それは宗教には熱心だったかもしれませんが、神様を中心とする生活はしていなかったということだと思います。それをイエスは偽善だと言っています。大切なことは神様を愛して、隣人を愛して生きることであり、宗教を押し付けることではないと思います。それは、「良いサマリヤ人のたとえ」でも語られたように、「隣人」の定義は何かというような神学論争ではなく、実際に困っている人を助けるということだと思います。私の人生の目的はキリスト教という宗教を広めることではなく、私自身が神様を愛して神様を中心とした生活をし、また隣人を愛して、この素晴らしい神様を中心とした生活をお伝えすることだと思っています。