キリスト教ではなく、神様を中心とした生活をして欲しい
水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。私はキリスト教という宗教ではなく、神様を中心とした生活をし、日本の宗教的な行事や伝統を大切にした生活をしていただきたいと思っています。そして、それこそが聖書が言っている生活であり、決してキリスト教的な生活をすることではないということを知っていただきたいと思っています。
無教会主義
実はこれまでにも似たようなことを考え主張した人々はいたようです。一つは内村鑑三という人が主張した無教会主義です。内村鑑三という人は明治の思想家ですが、西欧キリスト教会のあり方を批判し、それらの流れには属さない無教会という立場を主張しました。しかし、それでもキリスト教という枠組みの中での主張であり、プロテスタントキリスト教の一つと分類されることが多いと思います。
キリストの幕屋
もう一つは手島郁郎という人が提唱したキリストの幕屋です。こちらはさらに日本的なキリスト教を主張しており、日本の文化、伝統を尊重しようという私の主張にも近いと感じます。それでも、自らキリスト教を主張している点において、私の主張と全く同じということではないようです。
日本の伝統の中に受け継がれて来た神様の思い
私は「日本人の信仰と聖書について考える会」の働きをキリスト教という枠組みの中では考えておりません。私は旧約聖書にある神様についての記録、またイエスが教えられた内容は、キリスト教の伝統の中よりも、むしろ日本の文化、伝統の中に受け継がれていると考えています。ですから、私は新しく日本的なキリスト教を始めることではなく、むしろ日本の伝統の中に受け継がれて来た神様の思いを取り戻すことが大切だと考えています。
それは新しい宗教でもない
それは宗教だと考えていません。むしろ宗教にしてはいけないと私は考えています。宗教というのは信奉すべき教えがあるものだろうと思いますが、イエスはそのような教えを説かれたのではなく、神様を中心とした生活をするように教えられたのであり、むしろ固定化された教えを否定されたと私は聖書を通して理解しています。具体的にどう生きるのかは、神様を中心にして生きる中で、一人一人が育んで行くものだろうと思っています。したがって、大切なことは何が正統な教えなのかということではなく、神様を中心とする中で、それぞれの違いを受け入れ合うという和の精神だと思っています。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみたいと思います。皆様が神様を中心とした生活をする上で、参考にしていただければと思います。
新約聖書 ルカの福音書13章6~9節
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥しをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
教えではなく自分で考えることが大切ではないか
パリサイ人、律法学者、体制側の人たちとの差し迫った対立を前に、その心構えを弟子たちに語り、また群衆にも神様を中心とした生活をしない者は滅びると語ったイエスが、引き続き群衆に語ったのでしょうか、たとえを話されました。3年待っても実のならないいちじくの木。イエスは何のことを指して言ったのでしょうか。群衆には意味が分からないようにたとえで語るとかつてイエスは言われました。それぞれ自分で考えることが大切なんだろうと思います。
今日、神様を中心にして生きることを考える
はっきりとは分かりませんが、神様を中心とした生活が実であるとすれば、3年待っても実を結ばないのであれば、切り倒されてしまうということなのかもしれません。でも、もう1年と猶予が与えられているのかもしれません。でも、いつまでも引き延ばされる訳でもないということかもしれません。私たちも人生のゴールを見据えて、いつまでも先延ばしにするのではなく、今日、神様を中心にして生きることを考えるべきではないでしょうか。