日本人で良かった
火曜日のテーマは「日本人と日本文化」です。先週に引き続き、「何でも調査団」のアンケート結果から、日本人で良かったと思うエピソードを以下いくつかご紹介させていただきます。◆国内ではそう目立って几帳面な方ではないが、海外で仕事をするとだいたい周りの人から正確で計画的だと褒められる。日本人で良かったというより、日本の風土、習慣から身についたことだと思いいますが。(55歳未婚女性)◆「知らない」「できない」「無理」「無視」などの態度を受けることがほとんどないこと。海外ではあまりに頻繁なので、気持ちが萎えてしまいます。(55歳既婚女性)
日本の良いところは日本人そのもの
◆落とした財布が、お金が盗まれることなく戻ってくる。(63歳既婚女性)◆災害などで、暴動・略奪が全くと言っていいほど起こらない。海外のニュースを見ていると、なぜ日本では起こらないのか不思議に思えるほど。(39歳未婚男性)◆先日ロシア旅行中に、米国アリゾナの人とたまたま会った時、その人が何度も日本に来ていると言うので、「日本の良いところは」と聞いたら、即座に「名所旧跡はいろいろあるが、日本人そのもの。なぜなら優しく、親切な人ばかりだ」と、答えが返ってきたとき嬉しかった。(66歳既婚男性)(サイトからの引用は以上です。)
日本人の優秀性は神様を中心とする生活から
多くの日本人は自覚すらしていませんが、このような日本人と日本文化の優秀性は昨日今日作られたものではなく、太古の昔から大切にされて来たものだと思います。それは日本人が目先の損得や自己中心ではなく、神様を中心にして、神様の前に正しく生きることを良しとして来たからだと思います。皆さんの中にも聖書に関心を持っている方は多いと思いますが、私たち日本人が聖書の信仰に生きることは、キリスト教の文化を受け入れることではなく、この神様を中心とする生き方を取り戻し、日本人の特質を大切にして受け継くことだと思います。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、神様を中心とした生活の参考にしてください。
新約聖書 ルカの福音書15章11~32節
またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』 そして彼らは祝宴を始めた。ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
楽しんで喜ぶのは当然ではないか
取税人や罪人を受け入れ、食事まで一緒にするイエスに対して、ぶつぶつ言うパリサイ人、律法学者に向けて語られたイエスのたとえ話です。確かに取税人、罪人はこの弟息子のような者かもしれません。でも、死んでいたのが生き返って来た。いなくなっていたのが見つかった。楽しんで喜ぶのは当然だ。これが神様の視点だと思います。自分の愚かさを正直に認めて、神様を中心に生きようとする私を神様はこんなにも喜んでくださる。本当に感謝なことだと思います。
神様の視点を大切にして来た日本人
兄息子とはパリサイ人、律法学者を指して言ったのだと思います。彼らの物の見方は人間的な視点から言えば分からないでもありません。でも、神様の視点は違います。そして、日本人は太古の昔から、この兄息子の視点ではなく、神様の視点を持っていたのだと思います。だから、弱い者を蔑むことなく、いたわりあって、大切にして来たんだと思います。それが日本人だと思います。そういう視点を取り戻して生きること。それが神様を中心にして生きることだと思います。