神様の赦しを中心にする

神様を中心としないと、本当はこんなはずじゃないということになってしまいます

お祈りと聖書を読むことは習慣になってきましたでしょうか。目的は神様を中心に生きることです。そこにどんな問題の解決もあることを私はこれまで経験してきました。すべての日本人にそのことを知っていただいて、本当に悔いのない、本当に自分が望んでいる人生を送っていただきたいと願っています。

非常識はいけません。日本人としての良識を磨きましょう

これまでこのブログでお伝えしてきたことをまとめています。今日はその6番目。「日本人の信仰と聖書について考える会」では日本人としての常識、良識を大切にしていただきたいということをお伝えしています。他者への配慮。和の精神。礼儀正しさ。慎み深さ。遠慮。恥を知ること。思いつくままにあげてみましたが、その一つひとつについて、もう一度皆さんと考えてみたいテーマですね。非常識はいけません。日本人としての良識を磨いて行くことは私たちが本当に尊厳のある生き方をする上でとても大切なことだと思っています。私たちは神様の民なのですから、神様の民らしく生きることが大切だと思います。

今日も少し聖書を読みましょう

今日も少し聖書を読んで私の考えたことを書いてみます。皆様が神様を中心にして生活するための参考にしていただければ幸いです。ルカの福音書9章7~9節。「さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、『ヨハネが死人の中からよみがえったのだ』と言い、ほかの人々は、『エリヤが現れたのだ』と言い、さらに別の人々は、『昔の預言者のひとりがよみがえったのだ』と言っていたからである。ヘロデは言った。『ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。』 ヘロデはイエスに会ってみようとした。」

国主ヘロデの当惑

人となった神様であるイエスという人物による著しい奇跡の噂は国主ヘロデという人の耳にまで達するようになったということでしょう。今のようにマスメディアがある時代ではありませんが、それでもイエスのことを知らない人はいないというような状況になっていたのではないでしょうか。人間の思いを中心に考えるなら、いろいろな憶測や噂が飛び交うのだろうと思いいます。ましてや、この国主ヘロデという人は、自分の不倫の罪を責められたのに腹を立て、ヨハネを投獄し、心に迷いはあったのかもしれませんが、最終的にはヨハネを殺してしまいました。イエスの噂を聞いて、ひどく当惑したと書いてありますが、当然喜びや期待ではなく、不安になったんだろうと思います。

やっぱり神様を中心にすれば解決する

それでも神様を中心にするところに解決があると私は思います。いや、神様を中心にするところにしか、この国主ヘロデの解決もないと私は思います。心にやましさを抱えたまま、どうして喜びの人生を送ることができるでしょうか。自分の思いを中心にして考えるなら、嫌なことは早く忘れれば良いと自分を誤魔化そうとするかもしれません。あれは仕方なかったんだと自己正当化しようとするかもしれません。でも結局、神様の裁きを恐れながら生きることになると思います。

罪の赦し

人となった神様はそんな私たちの罪の身代わりに十字架につくために来てくださった救い主であると聖書には記されています。自分で解決しようとしないで、神様の救いを受け入れて、神様を中心にして生きれば、そこに解決があります。それが私の実感です。私自身、良心に責めを感じることは過去にもありましたし、今も、これからもあるかもしれません。でも、この罪の赦しによって、良心の呵責から解放され、神様を中心に生きる希望の人生を実感しています。

神様の赦しを中心にする

自分の足りなさ、自分の落ち度、自分の失敗、もっと言えば悪い思いや罪もあるかもしれません。弁解しないで、自分の良心に正直になって、確かにその通りだと受け入れれば良いと思います。受け入れないなら、その罪は残るかもしれませんが、認めてしまえば、もう赦されたことを良心は知ることができます。赦し。この安心感を何と表現したら良いのでしょうか。しかも、自分で勝手にそう思い込んでいるのではなく、神様という全てを超越する権威あるお方が赦しを宣言してくださるのです。それでもまだだめだという自分の思いを中心にしますか。それとも赦されているという神様の思いを中心にしますか。ここでも神様を中心にすることが解決だと知ることができます。

この人はいったいだれなのだろう

「『そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。』 ヘロデはイエスに会ってみようとした。」と書かれています。この人は人となった神様です。この方を神様として、心の中心にお迎えすればヘロデの問題は解決するでしょう。でも、ヘロデはいったいどんな思いでイエスに会ってみようとしたのでしょうね。