自分の問題が解決するだけではない

宗教ではなく神様中心。そのためのお祈りと聖書

最も大切なこととしてお伝えしているのは、どんなことでも神様を中心に考えるということです。そこに全ての問題の解決があると思います。それは決してクリスチャンになるとか、何かの宗教の信者になることではないということもお伝えしています。そして、いつも神様を中心にするために、毎日時間を決めて神様に心を向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。また、神様を中心とした生活をしようとしている他の人の意見を聞いてみるのも参考になると思います。

聖書について正しく知ってください

また、なぜ聖書なのかということも正しく理解していただきたいと考えています。聖書は決してキリスト教の教典として書かれた1冊の本ではありません。40人以上の様々な立場の人たちが書いた世界最古と呼べる66巻にも及ぶ古文書をまとめて聖書と呼んでいます。そこには神様が人類にどのように介入されたのか、また神様を中心にして生きようとした人たちが何を考えていたのかが記されています。宗教とは関係なく、私たちが神様を中心にして生きようとする時に、これほど参考になる本は他にはないと思います。

聖書を毎日読みましょう

ですから、聖書には私たちが守るべき神様の言葉が直接記されている訳ではありませんが、神様はどのようなお方なのか知ることができ、私たちが神様を中心にして、神様の願いをそれぞれの良心で判断する上で大変参考になると思っています。ただ、聖書は大変厚い本ですので、一般的には少しずつ分量を決めて毎日読むことをお勧めします。でも、中には一気に読破するタイプの人もいるかもしれませんね。それはそれで良いと思いますが、それでも1回読めばそれで良いということではないと思います。やっぱり生涯の座右の書として、何度も何度も読むことが大切だと思います。特に私たちは日本人ですから、聖書を読みながら、日本人としての常識、良識を磨いて行くことが大切だと思います。

新約聖書 ルカの福音書9章10~17節

それでは、今日も聖書の続きを少しご一緒に読みましょう。「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、『この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから』と言った。しかしイエスは、彼らに言われた。『あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。』 彼らは言った。『私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。』 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。『人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。』 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」

「使徒」とは神様の働きをする者

神の国を宣べ伝え、病気を癒す力と権威を与えられて、送り出された十二人の弟子たちが帰って来て報告をしました。ここでは「使徒」という言葉が使われていて、彼らは単なる弟子ではなく、人となった神様であるイエスから遣わされて、神様の働きをする者という肩書が与えられるようになったのかなと思いました。「使徒」とは、そんなイエスの代わりにとして遣わされた者という意味があるのではないでしょうか。私たちも神様を中心とした生活をする時に、自分の問題が解決するだけでなく、他の人を助けるような、神様の働きを担う者となれることを思わされました。これこそ私たちがこの地上に命を受けた究極的な使命ですよね。何と光栄なことでしょうか。

神の国のことを話し、病人を癒す

それからイエスは弟子たちを連れてベツサイダという町へひそかに退かれたとあります。弟子たちを休ませようという思いがあったのではないでしょうか。ゆっくりとイエスと弟子たちだけで過ごそうという思いもあったのかもしれません。ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来ました。その数は男だけでも五千人とあります。イエスの噂はそれほどになっていたのでしょう。休む暇もありませんが、イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、病人を癒しました。ここでも、イエスは神様を中心とした生活について話されたことが分かります。

これは教えではない。それを目撃した人たちの記録です

日も暮れ始めたので、弟子たちは群衆を解散してくださるようにイエスに話しましたが、「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」とイエスは言われ、五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、群衆は満腹して、余ったパン切れを集めると十二かごあったことが記録されています。これは何かの教えではありません。事実の記録だと私は思います。群衆は男だけで五千人もいましたので、実際にそのパンと魚はどこから来たのか人々は分からなかったかもしれません。でも、十二人の弟子たちは分かっていたと思います。このイエスという人はただの人間ではないことは明らかだったと思います。このことを目の当たりにした人たちが書いた文書が聖書として読まれているのです。この方は確かに神様です。この方の言われていること、願っておられること、それを中心にして生きることは、神様を中心にすることに他ならないと思います。