なぜ日本では宗教紛争が起こらないのか

宗教紛争

宗教の違いが紛争の理由とされることがあります。実際には人種や政治の問題も複雑に絡まり合っていると思われます。しかし、それぞれの言い分を正当化するものとして宗教が持ち出されるという側面もあるのではないかと思います。

もともとは同じ神なのに

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ旧約聖書を教典としていながら、お互いの間に紛争があります。むしろ、同じ聖書を教典としているから、その解釈をめぐって紛争があるのかもしれません。自分達の解釈こそ正しい解釈であり、違った解釈は神を冒涜するものだと考えるのかもしれません。

なぜ日本では宗教紛争にならないのか

多くの場合、日本は「多神教」であり、異なる宗教に対して寛容であるからだと説明されることが多いように思います。山に行けば山の神に、海に行けば海の神に、農作業では農耕の神に祈る。クリスマスを祝い、除夜の鐘を打ち、正月には初詣をする。そのように日本人の宗教観はいい加減なので紛争にはならないと説明される方もいらっしゃるようです。

宗教を超越した神様を仰ぐ日本人

しかし、私はそう思いません。日本人の宗教観はいい加減なものではなく、宗教の形は違っても仰ぐ神様は同じと考えているからではないかと私は思っています。キリスト教式の結婚式でも、仏式の葬儀でも、初詣でも、仰ぐ神様は同じではないでしょうか。

神様は宗教ではない

天地万物の初めであり、私たちに命を与えた神様は唯一であって、何かの宗教に限定されることはないと私は思います。確かに人類は神様をどのように仰ぐのかということで様々な宗教を作って来たことは事実だと思います。それぞれの民族に、それぞれの言葉や文化があるように、どのように神様を仰ぐのか、それぞれのやり方や宗教があっても良いと思います。しかし、このやり方でなければいけないとか、この宗教でなければいけないということになると本末転倒ではないかと思います。

それを知っているのが日本人ではないか

しかし、そのことを違和感なく受け入れることができるのは、今のところ日本人だけなのかもしれません。そして、そのような日本人の信仰、宗教観は世界では大変異質なものと映るようです。私はそこに日本人としての使命があるように感じています。やがて世界が日本人の信仰を模範として仰ぐ日が来るのではないでしょうか。このような時だからこそ、私たち日本人は特定の宗教ではなく、神様に思いを向けて、自己中心、人間中心を退けて、神様を中心とした生き方をしっかりと意識する必要があるのではないかと思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心として生きようとした人たちの記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツだということを知っていただきたいと思っています。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めいたします。

新約聖書 マタイの福音書 5章1~12節

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

大ぜいの群衆に教える

イエスはガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、御国の福音(神様を中心として生きる幸い)を伝え、あらゆる病気を直しました。その結果、イエスのうわさはシリヤ全体に広まり、大ぜいの群衆がイエスにつき従って来ました。そこでイエスは教えて、言われた言葉が今日の箇所です。

私たちの常識の逆

「心の貧しい者」「悲しむ者」「迫害されている者」が幸いだと教えています。私たちの常識と逆ではないでしょうか。私たちは自分の願いが叶えば幸せになれると思っていますが、そうではないということではないでしょうか。神様を中心にすること。それが本当の幸いだと教えているのではないかと私は思います。

神様を中心にする幸い

「心が貧しい」とは自分のことしか考えないような心の貧しい人という意味ではなく、自分の中には何の頼りにするものもない、全く自信喪失のような状態、そういうことではないでしょうか。そういう人ほど、もう自分の願いや思いや計画を中心にするのではなく、神様の願い、思い、計画を中心にして生きるようになり、本当の幸せを持つようになるということではないでしょうか。

宗教ではない。キリスト教でもない。

宗教ではありません。キリスト教でもありません。神様を中心にして生きようではありませんか。それは日本人が太古の昔から大切にして来た生き方であって、今も私たちの内に生き続けている生き方に他ならないと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部4円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様の知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。