神様の前にそれぞれが決断する結婚とは

神様を中心に結婚の相手を考える

土曜日のテーマは「神様を中心とした恋愛、結婚」です。神様を中心に考えることが幸せな恋愛、結婚の秘訣だと思います。神様を中心に考えるなら、結婚は感情で始めるのではなく、二人の意志、決意で始めるべきものだと私は思います。そのためにはしばらくお付き合いする中で、人生の価値を共有できる人なのかどうかを確認する必要があると思います。あまりに隔たりが大きく、何もかも気に入らない相手と共に生活することは、普通に考えるなら大変な困難が予想されると思います。でも、時には例外もあるかもしれませんので、絶対とは言えないかもしれません。

神様を中心にして生きようとしている人なのか

大切なことはそれぞれが神様を中心とした人生を送るために結婚はお互いの助けになるのかということだと思います。それは何か特定の宗教を持っているということを意味しません。私は日本人で神様を信じていない人は、余程の無神論者でもない限り、いないのではないかと思っています。日本人にとっては神様は信じる信じないという対象ではなく、神様を中心とした生活をしているのか、そうでないのかという違いだと思っています。仮に神様という言葉を使わなかったとしても、真面目に生きようとしているのか、正しいことを愛して不正を憎む人なのか、自己中心的でないのか、というような神様の願いを求めている人であるかどうかは判断できると思います。世の中には極めて自己中心的で、不真面目で、不正を何とも思わない人もいると思います。そういう人とは結婚しない方が良いと思います。

結婚はそれぞれが神様の前に決断するもの

人生の価値を共有でき、この結婚はお互いの助けになると二人とも考えるのであれば、結婚すべきだと思います。それは意志と決断によって前に進むものであり、将来の不安が全くないということでもないと思います。たとえどんな困難が起こってきたとしても、これからは二人で協力して前進するという意志と決断が結婚だと思います。そして、その意志と決断も二人の間でなされるものではなく、それぞれが神様の前に決断するものであり、お互いが困難の中にある時には必ず助けるということを神様の前に約束するものだと思います。

二人が見つめ合うのではなく、共に神様を見上げる

ですから、神様を中心とした結婚とは、結婚する二人の間で何かを約束することではなく、それぞれが神様の前にする約束を、生涯二人で協力して果たしていくという姿のように思います。二人だけでした約束であれば、二人が合意すれば解消するということもあるのかもしれませんが、神様の前にする約束は二人だけで勝手に解消する訳にはいかないと思います。結婚は結婚する二人が共に手を取り合って、神様を見上げるという姿に象徴できるように思います。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、神様を中心とした生活の参考にしてみてください。

新約聖書 ルカの福音書12章41~48節

そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

多く与えられた者は多く求められる

イエスは弟子たちに、「目を覚まして、神様を中心とした生活をしていなさい。神様は思いがけない時に帰ってきます」とたとえをもって話されました。するとペテロが言いました。ペテロはイエスの12人の使徒と呼ばれる弟子の最年長の弟子です。「このたとえは私たちのために言っているのですか。」 イエスはそれには直接答えずに、さらにたとえで話されました。今度はただのしもべではなく、しもべたちを任された管理人のたとえです。弟子の中でも最もイエスの近くにいた使徒たちを指して言ったのかもしれません。ポイントは「主人の心を知りながら、その思いどおりにしなかったしもべはひどくむち打たれる。」「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」ということではないでしょうか。

他人との比較ではない

そういう意味で神様は本当に公平なお方だと感じます。能力の差も、知識の差も、境遇の差も、生い立ちも、状況も、環境も関係ありません。私たちは人間的にはそのような違いに目を留めて人を羨んだりすることがあるかもしれません。しかし、神様の視点から見るなら、それによって求められているものが違う訳ですから、まったく公平だと思います。人がどうかということではなく、私は私で神様を中心にして生きることが大切だと思います。