キリストという言葉

「キリスト教」ではなく「キリスト」を正しく理解してください

私たち日本人にとって、ふつう「キリスト」と聞けば、「キリスト教」をイメージしてしまうのは仕方のないことだと思います。それくらい日本人にとって「キリスト」は「キリスト教」と同じ意味で理解されていると思います。これはクリスチャンの間でも混同されており、日本人が正しく「キリスト」を理解する妨げになっていると私は思っています。でも、この違いを正しく理解していただくことによって、日本人は正しい信仰を持ち、豊かな人生を送ることができるようになると思います。

「キリスト」という言葉がたくさん出てきます

パウロという人がコロサイという町の、神様を信じる人たちに宛てた手紙が新約聖書の中に収められていますが、その中にこういう箇所があります。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

確かに「キリスト」は新約聖書の中心です

これだけ「キリスト」という言葉が繰り返され、「キリスト」が大事なんだ、「キリスト」が中心なんだと書かれれば、そこから発展して出来た宗教が「キリスト教」と呼ばれるようになるのは、ある意味仕方のないことかなあと思います。それほど、新約聖書を読めば、繰り返し「キリスト」という言葉が出てきます。そして、確かに新約聖書の中心は「キリスト」だと言えると思います。

でも、当時の「キリスト」と今の「キリスト」は同じ意味ではない

しかし、それから2千年が経過して、このように西欧社会を中心に「キリスト教」という宗教が発展し、世界三大宗教の1つとなった時代の私たちが「キリスト」からイメージするものは「キリスト教」の影響を受けたイメージですが、当時、パウロが使った「キリスト」という言葉は「キリスト教」とは全く関係がありません。私たちは「キリスト教」という宗教とは切り離して、当時、パウロが繰り返し強調した「キリスト」の言葉の意味を正しく理解する必要があります。

「キリスト」と「キリスト教」を切り離して考えてください

どうか聖書を読む時、「キリスト」という言葉を「キリスト教」とは切り離して読んでいただきたいと思います。それが正しい聖書の読み方だと思います。新約聖書が書かれた当時、「キリスト教」という宗教は存在しませんでした。パウロはキリスト教の教祖ではありません。パウロは「キリスト教」を伝えたのではなく、「キリスト」を伝えたのだということを正しく理解していただきたいと思います。

人となった神様。それが「キリスト」

今から約2千年前。何と神様が人の姿をとってこの地上に来てくださった。それがナザレという村のイエスという人物です。目に見えない神様が目に見える姿をとってこの地上に来てくださった。これが新約聖書のメッセージです。この歴史上実在したイエスという人物こそ、十字架について3日目によみがえったこの人物こそが旧約聖書が約束していた「救い主」、ヘブル語では「メシヤ」、ギリシャ語では「キリスト」だと言っているのです。「キリスト」は固有名詞ではありません。「人となった神様」とでも訳すべき言葉だったと思います。「キリスト」という言葉、その音にこだわる必要はありません。

「キリスト教」ではなく、「キリスト」を伝える

この方にこそ神様の性質が満ち満ちているとパウロは言っているのであって、キリスト教といいう宗教について何かを語っている訳ではありません。この点を理解した上で、もう一度パウロの文章を読んでみてください。「キリスト」という言葉を「人となった神様」と読み替えてみましょう。パウロの言わんとしていることが良く分かるでしょう。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、人となった神様によるものではありません。人となった神様のうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、人となった神様にあって、満ち満ちているのです。人となった神様はすべての支配と権威のかしらです。人となった神様にあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、人となった神様の割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによって人となった神様とともに葬られ、また、人となった神様を死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、人となった神様とともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、人となった神様とともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、人となった神様において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

まだまだ誤解があります

パウロは「人となった神様」である「キリスト」について書いているのであって、「キリスト教」について書いているのではないことが分かっていただけましたでしょうか。しかし、まだまだこのことについて正しい理解が広がっていないと思います。クリスチャンの間でも誤解があると思います。「日本人の信仰と聖書について考える会」では、このような誤解も解いていきたいと思います。しかし、現状では「キリスト」と言えば「キリスト教」と受け止められてしまうと思いますので、「キリスト」という言葉はなるべく控えて、「人となった神様」または単に「神様」という言葉を使おうと思っています。でも、聖書を読めば「キリスト」という言葉が出てきてしまうので、それは「人となった神様」のことだと正しく理解してください。

クリスチャンになることではなく、キリストに心を向けて

どうぞキリスト教の神様ではなく、全世界の神様、私たち日本人にとっても神様であるお方をもっと良く理解するために聖書を読んでみてください。なぜなら、聖書は決してキリスト教の本だということではないからです。どうぞクリスチャンにならなくて良いので、キリストに心を向けて、神様に心を向けてください。なぜなら、キリストは決してキリスト教の神様ということではないからです。