すべての宗教を調べた訳ではありませんが、私はかつて9年間ほどキリスト教会の牧師をしていた経験から、これは宗教の1つの特徴ではないかと考えていることがあります。それは、これこそが正しい教えだということを、それぞれの団体が皆主張しているということです。当たり前ではないか、それが宗教というものではないか、と言われそうですが、たぶんキリスト教だけでなく、他の宗教もそのような特徴を持っているのではないでしょうか。
たとえば、キリスト教の教えは聖書をその根拠にしていると思いますが、昨日も書きましたように、必ずしも聖書はすべてが教えという訳ではなく、歴史的な事実の記録もあります。また、教えであっても、その教えはある特定の時代の、ある特定の人々に向けて書かれたものであって、本当にすべての時代の、すべての人に当てはめることができる教えなのかということはよく吟味されなければなりません。実際、ある部分は信仰が大事だと言っているかと思うと、ある部分では行いが大事だと言っていたりします。そこで、キリスト教では聖書の正しい解釈ということが大事だということになってくる訳です。
カトリック教会では、その解釈はローマ法王が決める解釈こそ唯一の正しい解釈ということになるんだと思いますが、プロテスタント教会では、それぞれの教派教団が、我こそは正しいとする解釈を表明し、ここまでは解釈の幅が許される正当の範囲内だが、それを超えるものは異端だというような主張もしています。
でも、本当にそのような唯一の絶対に正しい教えなんてあるんでしょうか。ある程度は多くの人が真理だと思えるようなことはあるかもしれません。でも、細々としたことまで、これが正しくて、これは間違い、なんてことを判別できるような基準を持つことは、人間には許されているのでしょうか。そんな絶対的な基準を人間が握ったら、それこそ自分が神のようになってしまうのではないでしょうか。私たちは神様の前に遜ることが求められていると私は思います。
私は信仰とか信条というものは、あくまでも個人的な確信として持つべきものであって、団体として持つべきものではないと思っています。これが団体の教えになって、これこそ唯一の正しい教えだということで、個人の信条に関わらず、強制されるようなことになれば、それはとても不自由で、それに合わせることができる、ごく少数の人だけのものとなり、その人たちにとっても益々これこそが真理だ、他の人は真理に背を向けているということで、意固地になってしまうと思います。
すべての宗教団体がそうであるかどうか分かりませんが、宗教団体というのは本来そういうものなのだろうと思います。だから、「日本人の信仰と聖書について考える会」は、宗教団体にならないようにしようと決めました。人を集めて、統一した教えを持ったり、お金を集めたりはしません。もちろん、私は私の考えをいろいろな形で発信しますが、人に強制はしません。参考になるなら、参考にしていただきたいというのが私の考え方です。
もちろん、自分では正しいと思っていることを発信しますが、絶対でもないと思っています。また、私の考え方がすべてをカバーする考え方でもないと思っています。だから、私と違う考え方があるんだと思います。違っていることは積極的に評価されることだと思います。私たちは違う意見を批判し合うのではなく、補い合い、いたわり合うことが大切ではないでしょうか。
確かに私は団体としての宗教については否定的です。私はあくまでも信仰とは個人的な信条であると考え、それが保証されることが大切だと思っています。しかし、だからと言って、宗教団体の功績が否定されるものでもないと思っています。どんなことにもメリットとデメリットがあるということだと思います。大切なことは、それぞれ確信することに取り組めば良いということであって、自分の確信を他人に押し付けたり、自分と違う意見を批判したりしないということではないでしょうか。
何か皆様の参考になれば幸いです。