「人生の目的」天命に生きるとは

本当に幸いな人生

私たちがこの世に命を受けたのは、それぞれ神様から与えられた目的があるからだと思います。それが何であるかは人によって違うと思いますが、それぞれが神様から与えられたこの世の使命を全うして生きるなら、それは他人との比較ではなく、本当に幸いな人生なんだと思います。

一つ一つ神様に導かれて進む

しかし、それが何かということがはっきりと分からず、ただ自分の確信に従って進むしかないところに一抹の不安を感じない訳ではありません。それでも、自分の確信によって進んでみて、また方向修正するしかない。というよりも、そのような過程そのものが神様の導きであり、その一つ一つの経験によって今の自分があると私は思います。この歳になって、これまでの人生を振り返ってみると、私はそう思います。

まだゴールインした訳でもない

でも、まだゴールインした訳でもないので、これからの人生にも思いを馳せながら、私は今確信するところによって歩んでいますが、最終的には、そのように生きて来て良かったと思いたいですよね。

それなりの成果を見たい自分

どうしたらそう思えるだろうか。やっぱり単なる自己満足ではなく、それなりの成果を見たいと私は思っていたようです。皆さんはいかがでしょうか。

今朝聖書を読んでいたら、こういうことが書いてありました。新約聖書ヨハネの福音書の3章22節からですが、イエスが弟子たちとバプテスマ(洗礼)を授けていたと書いてあります。ヨハネという人もバプテスマを授けていましたが、ヨハネの弟子たちが先生であるヨハネにこう言いました。

「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

そうしたら、ヨハネは弟子たちにこう答えました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」

神様から与えられなければ何もできない

多くの人がイエスの方へ行ってしまいます。自分の方へも人が来るように、何か努力や工夫をするべきなのか。商売であれば、当然そのように考えるべきだろうと思います。でも、ヨハネは神様から与えられた仕事をするのであって、神様から与えられなければ、何もできないと答えたのではないでしょうか。

私は衰えなければなりません

さらにヨハネはこう続けます。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

神様から与えられた使命

花婿とはイエスのことなのでしょう。ヨハネは自分はその花嫁ではなく友人に過ぎないと言っているのでしょう。多くの人々が花嫁のようにイエスのもとに集まるのを見て、ヨハネは嬉しいと言っているのだと思います。イエスが盛んになり、自分は衰えなければならない。それが神様から与えられた自分の使命だということなのだと思います。

必ずしも良い成果を見ることではない

私は今朝この箇所を読んで、神様から与えられた仕事をしっかりと見出して、その仕事に取り組むなら、必ず良い成果を見ることができて、深い満足を得ることができるのだろうと思っていました。そして、そういう成果を見ることができなければ、きっと自分の人生にがっかりしてしまうのではないかと勝手に思っていたようですが、そうではないということを思わされました。

ただ神様から与えられた事を全うする喜び

もちろん神様から与えられた仕事に取り組むなら深い満足を得る事ができると思いますが、それは必ずしも良い成果を得る事ができたからではなく、ただ神様から与えられた仕事を全うしたという満足感から来るものなのだろうということを思わされました。

支倉常長の人生

先週、石巻市にある宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)と仙台市博物館に行って来ました。そこで伊達政宗の命令によってローマに渡った支倉常長の生涯を学び、日本の情勢の変化の中で、当初の目的を果たすことができずに帰国した支倉常長の無念な思いを想像しました。しかし、支倉常長だけでなく、新選組の近藤勇や土方歳三などもそうだったと思いますが、この地上の人生は必ずしも期待した成果を得られるとは限りませんし、何と不条理で満ちていることかと思わされます。(当人たちはどう思っていたか分かりません。私がそう思ったということに過ぎませんが・・・。)

結果ではない

しかし、結果ではない。支倉常長はどう思っていたのかは分かりませんが、「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」 私たちは、ただ神様から与えられた人生を精一杯生きたら、それでいい。私も結果ではなく、心に示される確信に従って、ただ精一杯生きたら、それでいい。そんな思いを強くさせられました。

神様を中心にして生きる

だから大切なことは神様を中心にして生きることだと改めて思います。自己中心を退けて、神様を中心にして生きる。結果でも、成果でもない。それでいい。それが揺るがない人生だと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 マタイの福音書 7章24~29節

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

単に知っているだけでなく、実際に生きる

イエスにつき従って来た群衆に語られたイエスの言葉の続きです。イエスの言葉を聞いてそれを行う者。つまり、単に聖書の知識があるとか、イエスの言葉を知っているということではなく、実際に毎日の生活の中で神様を中心にして生きる者。そういう人は倒れないとイエスは教えています。後悔することがない。決して虚しい人生を送ることはない。必ず深い満足感を得る事ができる。

そういう人生を生きましょう。神様を中心にして生きることだと思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心とした幸いな生き方を多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

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